自分に苛々すること.

枕元で震えた電話を開けてみると、友人から「愚痴りに泣き言いきなりごめんね」というメールが入っていて、おやおや朝からこれはおおごと、と布団の中で読む。こういう場合、正当な意見や批判を返しても意味がなく、しかし会いにいって愚痴を聞く時間も作れず、どうするべきか、と暫く考えて返信す。自分の首さえ回らず苛立っている時に限って、こういうメールが友人からは着易いのはどうしてなのだろうか。こちらの愚痴を少々、弱音を少々、そして考えを少々、という内容に仕上げた。数時間後、別の友人に愚痴を云ったらこっぴどく批判されて余計に落ち込んだ、と返信されてきた。然もありなむ。自分の事を思ってくれるが為に、正当な事を云ってくれているのは自明であり、又正当な事を云われると落ち込むような事で自分で苛立っている事も確かなのだから、そういう結果は予想がつく。こういう時は、自分が考えつくところの「今出来る事」を少しずつやっていくしかない。もっと頑張る事が出来るのかもしれないが、何も出来ない、と思っている時には、出来る事をするのが一番手近な活動だろう。
やる気は始めてみないと湧かない、とどこかに書いてあった。

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レッスンの為に数時間自宅で練習をした後、論文の為の資料と出掛けに覗いた郵便受けに入っていた自分宛の封筒を携えて、コーヒーチェーンに行く。大きなドーナツ(もちもちしていて噛み応えのあるものが好きだ。多少油っこくとも気に掛らない)封筒の中身を読み継いでいると、すぐに時間が来てしまった。わざわざバスに乗って師匠宅に向かう。夕方近くの街中を走るバスは当たり前に混んでいて、到着に矢鱈と時間が掛かる。本を読むべきなのだろうが、折角バスに乗り込んだ時は街を見物する事にしている。街燈には街毎に違う装飾が施されていて、目で追う甲斐があるのだ。丸い鳥籠のようなものの中にまん丸の電球が入っている格好のものが気に入った。

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師匠は今日も優し過ぎた。

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気がつくと、今年は咲かないだろう、と勝手に諦めていた自宅の金木犀が咲いている事に、帰宅後下を通った時に気づいた。何があっても健気に咲こうとするのだ、花達は。