そら模様と心模様.

先日から自宅の庭でゆっくりしに来ている野良猫さんが、行く手を塞いでいた。あまりに呑気にしているので、しっしっ、と云うには忍びなく、どうしようか、と思って見つめていたところ、今度は勝手に向こうから、にゃにゃにゃ、とお喋りした。そろそろ御免よ、とこちらが少し身動きしようとした気配を察して、自分から道を立ちのいた。何と気の利くノラだ。
相変わらず元気はないが、苦しみの峠は越したような顔をしている。野良さんに災厄がこれ以上ふっかからない事を願うばかりだが、もうすぐ冬がやって来る。夏が往ったと思えば冬か、という思いは一緒だ、ノラや
道を行けば、身体を寄せ合う猫達を見かけるようになった。恰幅の良い洋猫が細く野良らしい子猫にくっついていて、こちらから見れば妙だが、余計なお世話ですわ、という顔をしていたので、それ以上見つめずにそそくさと退散する事にした。どんな動物の間でも、気持ちの良い距離と礼儀は大切だ。

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予約をしていた化粧品を受け取りに、と意気揚々と受け取り票を見ると、6日ではなく9日と書かれていた。何とも器用な日付の覚え方である。ゆっくりと過ぎていく日日の方が近頃は嬉しいので良しとして、別の用事を済ましに出掛ける。
来年のスケジュール帖はやはり決められずに終わってしまい、贈り物用の包装紙一巻きと買い足す必要のあったメモパッド(輸入物で最も有名な、橙色でへたらない表紙のついた、RHODIAというもの。ぴりぴりと千切る手応えが毎度楽しみである)を手にして輸入雑貨屋を去る。恐らくスケジュール帖に関しては、去年今年に引き続き、MOLESKINEの黒い手帖にするのだろう、自分よ。あの頑丈さと無駄の無さと落ち着きに一度味を占めてしまうと、他の手帖に多大な要求を向ける事が馬鹿馬鹿しくなるのだ。なぜならMOLESKINEがその要求をすべて網羅してくれるから。迷っている理由は、今後の生活に見合った手帖の仕切りが思い描けず、どう選択すればよいものか分からない点にあるのであって、何もMOLESKINEが悪い訳ではないのである。
素晴しく頑丈で絶えずしゃんとしているか、たとえ草臥れ、角と色が落ち、波打ったとしても、佇まいの良さを維持出来るもの、を文房具に関しては選ぶ癖がある。すぐさまなよなよと崩れていってしまうものは、途中で哀しくなり目も当てられないから、選ばない。水に強いものは嬉しい。多少の雨では傘を差すのを無精がる者にとって、紙ものとの付き合いは用心が必要なのだ。

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何事も放り出したくなる時は、書物に依存する。予ねてより読んでみたかった(が、「高価な」文庫で出版されているから躊躇していた)山田稔という文筆家の作品を買いに、又ついでの文庫一、二冊と共に、気に入りの書店に入る。店の先代らしき老人のいるレヂ台から発せられるのか、パイプ煙草の匂いが書物の匂いの隙間から流れてくるのを心地良いと感じながら、目的にしている書物の背を眺める。目的の本は何度も手に取られては収められたらしく、黒ずんでいたが、この店の本とあってはご愛嬌、他の新刊書店ではどうしたところで気にしてしまう清潔感は全く求めない。
緑の編み帽子をくたっと、しかし一寸も違わない丁度良さで頭に乗っけ、黒いサングラス越しに新聞を眺める老人に、『残光のなかで (講談社文芸文庫)』『ダンディズム―栄光と悲惨 (中公文庫)』を差し出す。拡大鏡で値段を調べ、値段を呟きながらレヂの釦を押し、カヴァーをかける。一冊置いて、もう一冊。この老人が、わざわざ楽しみにやってくる愛好家達の「意中の人」か、と思うと、観察をやめる事が出来なかった。この人に、ふうむ、と思わせるような本の選び方をする人は、どんな人なのだろう、と以前目を留めて暫く観察していた事のある客の姿を思い出しながら、通りを下った。
後々になってこの時買った二冊に、どちらの作者(山田稔生田耕作)も、年と分野は違えども京大でフランス文学をやっていた、という共通点がある事に気がついた。フランス文学か、また切りも途方もないところもつく。『ダンディズム―栄光と悲惨 (中公文庫)』の方を手に入れる事で、金子國義の装幀が本棚に増えたのも嬉しい。妖艶でも明け透けでもなく、独自の美学をまとった人物が見える。

兎も角、今日という今日は、買っただけに留まらず読むのだ、と意気込み、夕食後から深夜二時まで『残光のなかで (講談社文芸文庫)』を読んでしまった。読まねば、という必死の気持ちで読み進める読書ではなく、読んでしまう、という複雑な喜びをもたらす読書は久々で、こうなってしまうと時間が惜しい。睡魔にも無理を云ってしまう。後でたっぷりやるから、今は食わないでおくれ。
ペンで書いたそばからすぐさまインクが紙に沁み込むように、文は脳裏の風景に書き込まれるとすぐに沁み込み、その風景は声を殺して孤独のため息をつく。孤独と加齢への恐怖、という単純な解釈こそ、本棚の奥においやっておきたい。

彼は不機嫌のようだ。なぜだろう。あの長すぎるだぶだぶのズボンのせいだろうか。いや、そうではあるまい。わたしには、エレンブルグがあの異様なズボンをはいているのはわざとのような気がしてくるのだった。彼の孤独な姿があらわしている何か依怙地なもの--あのズボンは、現代の細いスマートなズボンどもへの当てつけではないだろうか。
  --「残光のなかで」

どれくらい修練を積めば、氏の云うような(「著者から読者へ」)「小説かエッセイかの区別、技巧を弄した表現や飾りなどは必要でない」として、「簡素で明確な文章」を書けるようになるのだろうか、「本当に他者に伝えたいことがあるとき」に。

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いつもより少しだけお金を出して、そしてしっかり歩いて出かけて行き、食事をするには、どういう店が自分達には丁度良いのか、という事を知りたくなり、珍しく無料クーポンではない情報誌を一誌買う。が、雑誌が設定している「対象」の外であったらしく、時々書かれている値段(書くなら全部書いておいて欲しい)に期待は打ち砕かれ、また「ライターお薦め」という信憑性付きの一方で記事自体がお粗末である事に苛立ち、勿体無い事に帰宅途中の塵入れに雑誌を突っ込んで来てしまった。雑誌が悪い訳ではないだろうに、一体何に立腹しているのか、先程食べた昼食はまあまあだったし、喫茶店のサービスも悪くは無かった。