無言の多い日.

新型でも旧型でもない電車の天井から、小さな蜘蛛が一匹垂れ下がっていた。通勤の時間帯に使われる電車では、網棚(と名づけられているものの、もはや大抵網ではないのだが)に荷物を置く乗客を殆ど見かけなくなった。戸口に近い人がラッシュ時に手持ちの鞄を乗せるくらいだ。蜘蛛も呑気に巣作りなんかしているのはその所為か、と思いながら暫く蜘蛛を見つめていたが、糸に絡まっている羽虫の亡骸同様、微動だにしない。すでに旅立ってしまっていたのだろうか。
電車に蜘蛛、という取り合わせに違和感を抱く理由は、蜘蛛は密かな場所に巣を張るという勝手な思い込みにあるらしい。餌場になりうるか、或いは巣を破壊されにくいか、という基準を満たせば、どこにでも巣を張るのだろうけれど、蜘蛛は、こそこそと密かに活動する虫だとばかり思ってきた。
その後、ラッシュ時ではかなり運の良い事に、目の前の席がひとつ空いた。荷物が重いので座らせてもらい、『コーマルタン界隈 (1981年)』を数ページ読んだ。一昨日読んだ短篇集同様、これも読み始めると夜を明かす気がするので、電車に乗っている時間にちょくちょくとゆっくり読み継いでいく事にする。
先日包装用にオイルペーパーを買ったのだが、包装して残った切れ端を本に被せてみたところ、時々ウィスキーの様な匂いがして、喜ばしい。ウィスキーの匂いを不意に嗅いだ事でウィスキーが飲みたくなる訳でなくて、ひとと行ったウィスキー工場をなぜか思い出した。可哀相に、親に付き合わされて連れてこられた子どもが、鼻を摘んでいた。
山田稔を地べたの店でこれだけ揃えているのは、うちの店くらいだ、と先日氏の本を購入した店のブログに書かれていた程、あの店ではよく氏の本が売れるらしい。初めて山田稔を一冊買って行った客のうちの何割かは、また店にやって来て同じ作家の本を買っていくのではないだろうか、そういう力のある作品群だと感じている。故に、あのレヂの老人に、近々また来る事を、待たれている気がしてならぬ。

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引退した部に先日嵐をもたらしたOGと現役部員の間で、価値観の食い違いが起こり、処理に一晩頭を悩まし疲れて果てた日の翌日起きれば、何事もなくそらはやはり晴れていて、恨めしい。些か気分が悪いなりにもゼミには出かけなくてはならない。また何かこっぴどく忠言されると思うと気は更に重い。
この間電車で、通りを挟んだ向かいの席の男性が、赤いのや白が混ざった塊が幾つか載った冊子を覗いているのが目に止まった。幸い私は眼鏡をかけていて、例の塊は金魚だと分かった。品評会か何かの冊子らしく、金魚の写真の脇に特選や一等という文字が見える。金魚は模様と背格好が見えるように、上から写されている。これがちっとも可愛くない。不可解な視線を発する目や、ちろちろと動く尾、申し訳程度のお腹、という全体像あってだ、と私が思う金魚という生き物は、そんな写真ではただの魚として眠っていた。金魚のいけ好かない写真はまあ良いとして、考え事の種は、この土地に金魚の品評会や愛好家がいるのか、というところにある。縁日用の金魚は各都道府県どこでも飼育されていそうだが、金魚を道楽とする人が、こんな身近で至極地味な土地にいるとは、という何でもない事に驚いた。或いは道楽ではなく、一回三百円等の金魚と共に一匹数万円だかの金魚も飼育しているのやもしれぬが。美しいものの世界は奥深い。個人的好みとしては、赤い色が艶やかで、美しく尾がはためく種類か、縁日の金魚で健康そうなのなら何でも良い。室生犀星『蜜のあはれ』の装丁に描かれている美金魚だと飽きないだろう。
ちなみに今日、盗み見た、というより、意図せず目に飛び込んできたのは、大人の男性向けの漫画雑誌の一コマだった。ふくよかな美人を見た気がする。
生活臭に程好く溢れた我がベッドタウンの風景を、私はそこそこ愛している。愛せているのは、近頃、或る問題の人に出くわさないで済んでいるからかもしれない。蝶と猫、散歩を待ってきゅんきゅん鳴きながら回転する犬、スーパーの袋に入れて置き去りにされた塵の白い塊、そろそろ現れるはずの焼き芋屋、それらの脇を皆、通勤または帰宅を急いで、無言で足早に通り過ぎる。皆何とかうまくやっている。そういう街に棲んでいる。

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ノラが、肉球を触らしておく程機嫌を良さそうにしていたので、調子に乗って手を伸ばすと、すかさずパンチが飛んできた。ぱちん、と手を叩かれた。掌に爪先が少々食い込むだけで済んだのは、やはり機嫌が良かったからだろうか。無礼を謝っておいた。人より猫ばかりに興味を持ち、人より猫の気ばかり引いて暮らしていると、どんどん猫の世界に引き込まれていく気がして、はっと恐ろしくなるも、帰路でまた猫の視線を感じて、追い駆けてしまう。

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研究室で論文執筆中の者達は皆、お菓子を脇に置いて作業をしている。食べなければやってられぬらしい。進んでる、という質問は止めにしようよ。
オールド、と呼ばれる約百年前の古い古い楽器を弾かせてもらった。部の大先輩が楽器店を経営されていて、部の演奏会用に一本貸して下さっているものに、珍しがって飛びついてみた。男前、と形容されるまでに力強く鳴る様に育ててしまった自分の楽器とは違い、弾いていると自然と癒される、いつまでも弾いていたい繊細でも大雑把でもない、大らかな音がした。そんなに気張る事なんてないのよ、と老人に諭される気分になる。そういう楽器は、気張りたい時や、気張る事で自分の不足を補いたい時には向かない。幼さと背伸びを理解してくれる楽器なら、今現在使用している、購入から5年かけて育ててきた楽器が一番だと再確認する機会となった。