駆り立てる菓子との邂逅.

今日のノラ記録として、かの野良猫は隣家の室外機の上でまどろんでいた。昨日の事があってか、一瞬気まずい空気が流れた気がする。そして今日は機嫌があまり良くなく、お腹もすいている様だったので、そっとしておく。こちらを見てひゃあと一声鳴いた。
狐色一色(尻尾は白との縞)のこの猫を、『ノラや (中公文庫)』を意識してノラと呼ぶには違和感があるが、他に呼び名が浮かばず、付けたところで余計な愛着が湧いてしまうので、やはり、ノラ、という事にしておく。野良猫だからノラ、というだけの事で良し。

その猫の目じるし
1雄猫 2背は薄赤の虎ブチで白い毛が多い 3腹部は純白 4大ぶり、一貫目以上あったが痩せているかも知れない 5顔や目つきがやさしい 6眼は青くない 7ひげが長い 8生後一年半余り 9ノラと呼べば返事をする 電話33abcd
--『ノラや内田百輭

顔も目つきもやさしくなく、痩せていて頼りない身体つきであるこちらのノラは、勿論、ノラと呼んでも返事などしない。

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一週間程前から、自宅の菓子缶には、神戸は本高砂屋のエコルセという菓子が入っている。貰い物のお菓子があるから、と母に告げられ覗いたその時、狂気乱舞せん勢いで包みを幾つか手に取り、口に運んでしまった。クレープを何層にも重ねたものをぱりっと焼き上げた様な、この繊細且つ上品なこの菓子を、褒め讃える言葉は尽きない。樹の模様が判押しされた深緑や銀、紅が鈍く輝く包み紙も、変わらず。
幼い頃から手遊びが止められず、刷り物の角をくるんと巻いてみたり、チューイングガムの包み紙をアルミ箔と紙に分けてみたり、手近な紙で鶴を作ってみたりと、長じた今でもいつも手で何かやってしまう。例の菓子を手にすると、その癖の標的は菓子本体に向き(勿論包み紙の分離も魅力的ではあるけれども)、クレープ一層一層を剥がす、という手遊びをテレヴィを見ながらやっている。これがなかなか難しいので、余計に夢中になってしまう。
食べ物で遊んではいけないのだ。自宅でこそ出来る何とも下らない遊びである。
「エコルセ」はフランス語の「樹の皮」という意味だそうだが、やはり幼い頃、白樺製品の薄い皮を剥いて遊んでいた事を思い出した。そういえば壁紙もぴりぴりやって叱られた、という事も、ついでに。

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コーマルタン界隈 (1981年)』を引き続き読み継いでいる。図書館の書庫で眠っているうちに、すっかり茶色くもろもろになった頁を、白くて真新しい本を捲っている清楚な感じの青年の横でめくった。ずっと後まで彼はぺらぺらとやていたが、こちらは途中で本と瞳を閉じた。
短篇集に収録されていた「メルシー」と「シネマ支配人」は、この本の中で、続きものとして読みたかった。小説なのかエッセイなのか区別がつかない作品には、未だ慣れていない為、出くわすと少々「身の処し方」について戸惑う。けれども、区別がつかない事は、深読みを可能で甲斐のあるものにするから、好きになっていきそうな気はしている。
書店では中公文庫が、何周年記念かの帯をつけられ目立っている。中公文庫好きの私は見る度、心の中で小さなお祝いをする。読んでやらねばならない本が未だ沢山ある。中公文庫の目録はちょっと高価で買う事が出来ないけれども。

いよいよ文章の練習をせねばならない、という心が湧き起こってきた。論文は英語で書かねばならないので、日本語よりも性急に英語を訓練せねばならぬものの、末永く付き合っていく予定の日本語を、今は本当にどうにか改善していきたい。装飾と詳述で稚拙さをカヴァーしている状態は、早々に抜けておきたい。
本を読んでいると、出かけていって色々なものごとを見たい、と思いだす。町を「読む」のもまた楽しい。没頭するのも良いが、「勿体無い」という感情と単純なる好奇心から、色々な世界を覗いて回りたい。そうする事でまた一段と、読書の楽しみと幅が広がるのだという事を、近年気づいてきた。物事には、還元、循環する特性があるのやもしれぬ。物思いも、循環するし、どこか別の物思いへと飛び火したり吸い込まれたりしていく。

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他人の為に、祈りを捧げる事が近頃は多い。自分に関しては、精一杯の事を毎日続けていれば何とかなると信じているが故、神は必要ない。が、他人の不慮への心配は、もう祈る事でしか解消されぬ。よって、毎年ひとの誕生日には、霊験あらたかと評判で感じの良い(感じが良い事は大切だ。生理的に)神社へ行き、一年間の無事への感謝と今後の祈りを捧げて、お守りを持ち帰る。
五ぼう星が刺繍されたお守りと、巫女がまとっていた衣の白さが、後々まで目に残った。