カーニバルの朝.

黒いオルフェ」と呼ばれる曲が、頭から離れなくなる。ギターを弾きながら恋人と至福を思い出し、彼女は戻ってくると信じている、と歌っている。
「枯葉」や「黒いオルフェ」が流れる季節になると、秋(しかも冬に向かう、という意味での秋)である事を確信する。

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気に入りの書店に入り浸り、書物の並びで書店の意図とお薦めを確認する作業をしている途中、外国人の少女の写真が装丁の文庫本を発見す。近日公開の映画「エコール」に合わせた少女特集かとあたりをつけながら本の題名を睨んでみると、『ロリータ (新潮文庫)』だった。話題の新訳が早くも文庫化したらしい。すでに大久保訳『ロリータ (新潮文庫)』二冊も持っているが、これも買っておきたい。翻訳の質の向上っぷりはさておき、旧訳の堅苦しさが引き出すストイックさは、新訳にはない良さだから、一重に新しけりゃ良いものではない、として素人は旧訳を古本屋に売り払うという事を出来ないでいる。他に気になる新刊が並んでいた、『「ひとつ、村上さんでやってみるか」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける490の質問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか? (Asahi Original)』『旅先でビール』等。後者は、新聞の様な書体が利いていて、電車に乗る度にでもちょっとずつ読み進めたい類だ。映画に合わせて暫くカポーティが何作も並んでいるし、秋の夜長に外国文学を、という狙いで名作が机に沢山盛られている。一応は手に取るものの、こういうのはいつでも読めるからひとまず、と置いてしまう。結局読まず終い、という事にならぬように、いつかもう一度手に取る事を覚えておかねばならぬ。旅の書物も置いてあり、何もかも放っておいて電車で旅に出かけたくなるも、そう怠惰を重ねていられぬ身分であるので、やはり旅には気を向けない事にする。先日神社に行った際に引いたおみくじには、「旅行 秋にせよ」と書かれていた。気分は常に旅に出ているのだが(‘traveling’)。人生は旅、というメタファーを引き合いに出さずとも、すでに意識はタラップに足をかけている。

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ひとが会社の面接に行った。終わった、という連絡があるまで気が気でない。その会社と付き合いがあり、彼が応募してきた事について社長と話をした、という楽器屋でもあるOBが、あいつ大丈夫やろうか、と云うので余計に不安になる。昼食のネパール風チキンカレーの味が鈍く感じられた。
ネパール風のカレーというものを食べた事がない為、何がどうネパール風なのか分からず、勿体無い思いをする。すっとする辛味がある、とか、緑の野菜(何だったのか忘れてしまった。茫然として食べていたのだ。恐らくピーマンか何か)が入っている、とか、そういう単純な味わい方をした。今調べてみると、ネパール料理には生姜を使う、とあったので、きっと生姜が入っていたのだろう。スープ状のカレーに仕立ててあり、御飯と別の器で出てきた。スプーンでルーをすくって御飯にかける、という方法は何だか好かないが、ルーに一口分の御飯を投入するいつもの方法はあまり上品ではないのかもしれない、という気になって、ちらりと他の客を見てみると、すでに器は空で、参考にしようがない。仕方ないので、前回に引き続き自己流で食べた。給食を思い出す食べ方だ、といつも幼い気持ちに帰る。
コーヒーを飲みながら、映画館の上映スケジュールを眺める。どの映画も魅力的に写る。特に、この間観た「太陽」と同じ監督(アレクサンドル・ソクーロフ)の作品を、話題にのぼったついでに二本上映する、というのは観ておくべきなのだろう。また何度も目につくタイトル「パビリオン山椒魚」、こういう映画はきっと好きなはずだし、きっと霊感を得る事だろう。映画館で観る映画には期限があるから、とても哀しい。選び取ってその時観る事が重要なのだ、とも云えるけれども。人生において。
そういえば、引退した部の先輩に、大山椒魚を愛して止まない(山羊の次にか前にか)女性がいた。今は牧場で働いておられ、牛や山羊と一緒に過ごされているそうな。彼女程、大山椒魚の絵が上手な人は、なかなかいないと信じる。部の合宿か遠足で行った水族館でそれを見かけた時は、目を輝かせていた。懐かしい人。どこがどう好きなのか聞きそびれてしまったが、目についての評判は一般的に高い。
気に入りの喫茶店では、マスターが注文を取りに来ると、コーヒーはいつお持ちしましょう、と必ず尋ねてくる。一方マスターの奥さんは、私がコーヒーにミルクを入れない事を知っていて、元からミルクは運んでこない。料理に忙しいマスターに顔を覚えてもらうには、話かけるしかないのだろうけど、糸口が見つからない。近頃奥さんは、空いた時間にはPCに向かっている。帳簿でもつけているのだろうか。以前は新聞か本を読んでらしたのだが。時代を感じる。

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父に貰って一時飲んでいた芋焼酎を、一ヶ月くらい放置していた事に気がついて焦り、恐る恐る開けてみる。幸い、お湯割り一杯分しか残っていなかった。さすがに不味く、喉に突き刺さる。でも飲んでしまった。次は大吟醸が待っているが、手早く開けてしまわないといけない、と思うと栓を抜く事が出来ない。ちびりちびり、という飲み方に慣れず、肴を味わってからくいくいと飲む、という大人らしからぬ飲み方で飲む。

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早朝に出掛けた為、どこかにあるねぐらに籠もっているらしいノラには会えず。いつもの顔ぶれには会った。

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演奏会間近の部が、ホールで練習するというので早朝から見に行き、我が子のような気分で見守る。
技術云々は現役部員が自ら気づき考えれば良いのであり、自分はと云えば、常に悩み顔であった後輩達が穏やかな顔で弾いている姿を黙って見ている事と、音量調整の忠言、最終段階の練習課題を提案する事くらいのものだった。皆の頑張りに、思わず泣きそうになった。思いいれがある者はこうして感動するが、そうでなく、この団体の演奏を初めて聴いた人はどんな印象を受けるのだろうか。技術指導役がいない、というこの団体の技術や意識は、プロの技術指導役のいる団体とは比べものになる以前の状態ではあるけれども、それだけに、自分達で頑張ってきたものを聴いて欲しい、という熱さにおいては他とひけを取らない、という事を信じている(裏を返せば、技術や他の奏者にすがりつき、なよなよとした自我で以って演奏する中途半端な学生団体は、目が当てられない)。
観客を意識した音楽にまで手が届くかどうかは不明だが、集団で何か頑張り通した姿を期待している。