「茶釜」は語る.

uopus2006-11-13

書物や紙類を扱う日々に、文鎮は重宝する。ちょっと文具店や雑貨屋、土産屋に入れば、ペーパーウェイト、というものはすぐさま見つかるが、大抵は一通り眺めた後埃を被るであろうものにしかお目にかからない。
いつか南部鉄瓶、「ぶんぶく茶釜」に出て来るようなものが欲しい(良いものは高価、という法則の最適な例ともなるべき逸品)、と或る店をうろついていたところ見つけた、鉄瓶型の文鎮(ペーパーウェイトとは呼びたくない。鉄かブロンズ製とくれば、文鎮、という事にしたい)が、一番の愛用品となった。中途半端な重さの為に置いても紙の上を滑り落ちたりする煩わしさは、この文鎮に限っては全くなく、一つ頁の角に置いておけばしっかり紙を鎮めてくれる。表面にあられのあるものと無いもの、更に小さなもの、の三種類ある文鎮シリーズが、気がつけばすべて机の上に勢揃いしていた。きちんと取っ手もついていて、ころっと可愛い。
写真は小さいサイズの文鎮、小さい為にこれは殆ど観賞用ではあるが、しっかり重みはあり風の一吹き位には勝つはず。

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ひたすら眠く、だるさと靄が抜けない為、一時間もう一時間とこんこんと眠り続けた。相変わらず練習中の曲が夢の中でも流れている。
久々に緑茶を淹れる。香典返し等に戴いた古いもの(葉が変色している)しかなく、味が抜けてしまっているものの、醗酵した茶にはない甘い香が心を和ませる。新茶の青い色が見たいが、高価な珈琲豆同様贅沢品は、インスタントコーヒーで満足する日々には不要であるから、望まない。
緑茶は気長に淹れねばならない。熱湯を急須から湯呑み、再び急須に移しながら熱を取る、という作業は、飲みたい、と思ったらすぐ飲む生活向きではない。まあまあお茶を一杯、という生活ぶりが思い出される。熱湯を注いで良いとされるほうじ茶でも買ってこようかと思う。単に熱湯、といえども、カルキをしっかり抜いた熱湯で淹れる事で旨味が増すらしいので、やはり気長にという基本的な心構えは変わらない様ではある。本来、何事も時間を必要とするもので、急拵えは何の役にも立たない、そういうものなのかもしれぬ。

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童謡や童話には親しんで来たつもりで、小学生の頃は人よりよく知っているつもりだったが、今では随分と記憶も親しみも薄れてしまっている。
「ぶんぶく茶釜」も、狸が出てきて失敗をする話だという大筋しか覚えていないし、他の童謡でも変わらない。けれども、面白い事に、その話を読んだりしっかり覚えて味わっている時に、自分は何にどんな印象を抱いていたか、という記憶だけは、今鮮明に残っているのだ。茶釜の話は、黒くて重厚で、湯をかんかんと沸かす、熱そうでちょっとおっかないのがあるのだ、という事がずっと頭に残っている為、南部鉄器を見ると狸を思い浮かべるのが常である(こうやって子どもは身の回りのものや感覚を知っていくのかもしれない、と思わないでもない)。また、南部鉄器、という言葉を見れば、狸と同時に、小学校の社会科で使った、それぞれの地方の名産品が描かれた日本地図をも思い出す。試験に出るか、覚えなさいと云われたか、何かしら作業か調べ学習をしたかで、小学校という記憶にこびりついたままになっている。
「雨降り熊の子」という歌は、「みんなのうた」に出て来た、柔らかそうな茶色いぬいぐるみの熊の子を、「歌を忘れたカナリア」は載っていた本の挿絵を覚えている。童話と童謡を集めたあの古い本は、弟によって廃品回収に出されてしまった。今でも悔やまれる。日本だけではなく、外国の童謡、マザーグースまで載っていたというに。
記憶は、上辺だけの出来事や知識ではなく、深く心に刻み込まれたものが最終的には残るものらしい。だから、嫌な記憶はなかなか消えなかったり、忘れていた感覚がある日突然しっかり舞戻ってきて、我々を混乱させたり一方で救ったりするのかもしれない。

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借り物の楽譜を、大学購買部のコピー機に置いてきたらしい事に、五日程経った今思い出す。保管されていず他の心当たりのある場所にもなければ、必死に謝らねばならぬ事態である。
昨日は昨日で、傘を持ち出そうとして、いつもの気に入りが無い事にも気づいたのだった。これは恐らく、研究室からの帰り、晴れていた為に持ち帰るのを忘れただけだとは思う。
失くし物が多い時というのは、時々訪れる。そういえば、先日神社で引いたおみくじで、失くし物は一刻も早く探せ、とあった。楽譜は、五日も経ってしまったのだから、出て来ないかもしれない。けれどもともかく急いで明日探しに行こう。
コピー機に忘れ物をする、ましてや借り物を忘れる事も、気に入りを忘れる事も、今まで決してなかったのに、どうしてしまったのだろう、と思わざるを得ない。抜けているのか、何なのか。