白くなった珊瑚の行く末.

身体の為に、口寂しくとも紅茶や日本茶、烏龍茶を試している。けれども、満たされて或る程度の時間集中出来るのは、やはりコーヒー(近頃は専らインスタントコーヒー)で、これはもう殆ど中毒だ。
朝食はパンにするか御飯にするか、という選択は、寝床でする。空腹度が強い時は御飯を食べる。未だ暖まりきらない台所で、気を抜けばすぐさま下りてきそうな瞼に注意しながら、かじかむ手にティースプーンを持たせ、ぐねぐねと納豆をかき混ぜる。納豆好きは、気がつけばあっという間に目の前の納豆かけ御飯が消えている事に毎度驚く。近頃の納豆は匂いがきつくないので、出掛ける前に必死で歯磨きをする必要がなくなった。楽なのかさびしいのか何なのか。

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78(ナナハチ)』を読んでいると、珈琲とドーナツが食べたくなり、深夜の空腹には堪える。こういう本があるのだ。吉田篤弘の作品は、一話の中に次の一話の足がかりが隠されているものが多く、一冊読むにも、次はどの人の話かしらん、と何度も追い駆けていく楽しみがある。そして作者の嗜好や郷愁の匂いを、居酒屋帰りの服から嗅ぐ焼き鶏の匂いの如く、作中から嗅ぎ取る。記憶に付随する感覚の断片を揺すぶり起こす様な現代小説には、ついつい手を伸ばしてしまう。思い出す、という行為が途方もなく好きなのだ。これは果たして、過去に生き過ぎている事にならないか、心配ではある。

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目にした写真の中の螺旋階段が一瞬、波に削られて骨組みだけ残った巻貝に見え、縁飾りのついた繊細な黒いレースにも見えた。
貝とか砂、白くなった珊瑚を、旅の荷物になる事も気にせず、ビニル袋に入る限りの「気に入り」を拾い集めた海辺の時を想う。幼い頃も長じてからも(と云っても、まだまだ半分位子どもなのだが)、ものを拾ったり道端で立ち止まる事はしばしばある。多分、今後も海へ行けば何か拾いものをするだろう。海や川のものには魂が宿っているから、と云われて、きれいな石はあらかた手放してしまったが、どうしても捨てきれないものは未だに自室に飾ってある。ここに居たくないなら、自然に自分からどこかに消えるだろうから、逃げたいようなそぶりを見せない限り放っておく。
人にもものにも、余計な口出しはしたくないのだ。人やもののそれぞれの意思というものが、ひとつひとつ違っていて、それをこのちっぽけな手でどうにかしてしまう事は、非常に勿体無い事だ。自分がそうされたくないから、というのも大いに有るけれども。

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本を読んでいると、気に入った文章に線を引きたくなるものの、一度それを始めてしまうと、もれなく引いてしまい一頁じゅうが線だらけになりそうなので、やった事はない。人が線を引いた本を読むのは、前の本の持ち主の感じ方を想像するという、文章を読む以外の楽しみがひとつ増える気がして楽しい。しかし、学術書の線引きは、お節介以上の何物でもない。
来年は、名文を書き留める為の手帖が欲しい。

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家事や掃除をてきぱきとこなすのが好きだ。一つの移動で色々な事をついでにやってしまう事は、非常に快感を抱くし、又脳を使っている様な気になる。汚い、と思ったが最後、磨いたりゆすいだりせずには居られぬ。
こういう、必要な事以外考えずに済む作業を好むのは、考える作業を避けている結果であるような気がして怯える。
朝から溜まっていた食器類と鍋を、えい、という気合の後、頭を真っ白にしてすべて洗ってしまう。丁度良く爪が柔らかくなった(水でもどした気分)ので、片手だけ魔女の様になっていたのを(もう片方は楽器を弾く為に短い)切ってしまう。これも「真っ白」で。魔女の爪に、切れ味の鈍い爪切りは太刀打ち出来ない様で暫く切れずに、はごはごと噛み砕くのに時間を取られた。入浴後に切るのが良いのだろうが、夜爪切りは親の死に目に会えない、というので、抵抗があるのだ。