たったのニ小節で間違える.

洗濯物干し用蛸足に引っ掛かっているタオルの橙色が、ぼやけた視界に差し込み、どこか浮ついて眠たげな世界を追い払う。生活の匂い、すなわち現実というものは、橙色をしているのだっけか。
クリスマスに、見知らぬ人達の前で楽器を弾かせてもらう事になったので、そろそろ練習に入らねばならない。鉛筆片手に楽譜に見入り、切れ切れにメロディーを口ずさむ。いざ弾いてみると、暫く弾かなかった「つけ」が如実に現れる。折角の構想が実現出来ない。先が見えない事柄がまた増えた。
立て替えていた代金が返ってきて、やっと財布に紙幣が戻ってきた。ずっと食べたくてしかし叶わず、思考に上る度に唾を飲み込み忘れようとしてきた、念願のドーナツを早速食べに出掛ける。或いは、読みかけの本の先が気になって、読書の為の寄り道をした、とも云える。行儀が悪いが、やはり本がどうしても気になるので、左にドーナツ、右手に本を持ってみた。が、うまくバランスが取れずに結局、ドーナツがひと段落してから読書に入る。
十字路のあるところ』を読み進める。短篇が並んでいるが、徐々にストーリー性がぼやけていく感を得る。胸の内で、ぼおんぼおん、と響く、知らない感覚の読み物だった。眠たげな、という形容詞が作中に何度か出て来る事で、この作品自体が徐々にもしくは最初から眠たげな事に気づかされる。吉田篤弘の著作は、演歌が流れているような居酒屋で、酔っ払う一歩手前に似ている。頭に過ぎるあれこれ、日々の事や途方もなく入り組んだ想像を、お酒と肴で流しながら、他の客や常連を観察する、興味深々の五感が最も調子よく働く間に。或いは、平日の休日の昼間にも似ているかもしれない。懐かしい感じ、と氏の作品に関して評される事が多いが、その懐かしいものを、ついつい記憶の底から引っ張り出してしまう現代と人、と云う印象の方が強い。
何事も、自分に置き換えて考えるから誤解は生じるのだろうけれども、他人の脳は借りる事が出来ないから、致し方無い。なるべく、というレヴェルでしか他人に寄り添う事が出来ないのは、少し残念だ。

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幼い頃から(昔から、と書くのは避けている。20数年足らずに昔は無い)、見知らぬ姿が良くて優しい人に抱きかかえられる夢をよく見てきた。もう数十回目になるであろう「その夢」を、今日も再び見る。希望なのか、憧れなのか、夢想なのか、記憶なのか知れないが、「この夢」は「いい夢」(気分の良い夢)に分類され、暫くふわふわした心地でいる事が出来る。