つみれのざらざら.

いくら厚着をしても、手先が冷たくてかなわない。指先の無い手袋が欲しい(こういうの)。これならはめたままで作業が出来る。買えば済む、と思っていても、自分で編めそうなものは買う気が起こらない。
祝日で珍しく家族勢揃いしたので、いつもなら毎週日曜にする事になっている、祖母を交えた食事会が今日催された。鍋の具材として旬の高級魚、クエが登場、ぷりぷりとした食感を愉しんだ。出汁を取った後の顔面も、コラーゲン豊富というので、眼球以外はきれいに戴いた。ご馳走様、と呟きかけた時に、眼球の側からダンゴムシを伸ばしたものに似た生き物の亡骸を発見し、感謝の呟きが小さな悲鳴に代わった。
先々週に続いて、また祖母から古い服を貰い受けた。男性もののセーターが何着か。捨てられないし持って行って着ない、と云われても、自分の趣味と実際に着るかどうかを考えるとなかなか、うん、とは云い難い。結局、濃紺でポケット付きのカーディガンだけ、これは、と拾い上げた。オーバーサイズのそういうものにちょっとした憧れを抱いているので、これは着るかもしれない、と現金にもしっかり貰ってしまった。どれも粗雑に扱われた形跡がなく、確かに捨て難いらしい、という気配は漂っていた。何が捨て難くさせているのか。愛着なのか過去の持ち主への思慕なのか。
男性ものらしき雰囲気が、ポケットと釦で和んでいる服に惹かれる。たとえ似合っていなくとも、着たい服があるのだ、とはこういう服を着る事でなぜか知らぬが抱く安堵により、もたらされる実感なのだ。よって私の服装には一貫性がない。
濃紺でポケットや釦がついているような人に、私は安堵するのかもしれない、と妄想してみた。強ち単なる妄想ではない感じがするのだが。
クエは青い肌をした魚だと思ってきた。買ってきた時にはすでに切り身になっていたが、切り身の端っこや顔面を見て初めて、よくある「魚の色」をしているのだ、と知った。なぜ青いものだと思ってきたかというと、水族館の水槽の底で眠たげに、分厚い唇を開閉していたその魚が青かったからである。が、それは今から思えば照明の所為だったのだ。青い魚は青い海にしかいず、深海魚はちゃんと深海魚らしい色をしているものらしい。鮟鱇と同類としか思えなくなった。・・・そうなると、深海魚は美味、という仮定を打ちたてたくなるのだが、実際のところはどうなのだろう。