熊蜂の飛行.

野良猫に一声かけたところ、奇怪な表情を返され、驚く。にゃあ、と云ってみたところで通じないのは知っているが、何もそんな顔をしなくても、と驚きの後には小さな哀しみがやってきた。
猫に、つれなくされたと云うより、冷たくされた午前に引きかえ、午後は宣教師らしき女性二人と、キャッチセールスを目論んでいると思われる女性一人に声を掛けられる、という変な人気ぶりを博した。
会いたい人には特に会わず、会いたいのかもしれないが会うと困るであろう人には夢の中で出会い、猫に邪険にされたかわりに初対面の人の目に留まる、という妙な具合の日であった。
恐らく、過去に独りよがりに焦がれた人のうちの何人目かが、夢にちらりと姿を覗かせた事から、今日の一日の「不具合」は始まった。その人が夢に出て来た、とははっきり記憶がないのだが、疲労と胸を引っ掻きまわすような質の憂鬱に、起床後暫く憑かれていたので、多分彼は「来た」のだと思う。
もう来ないで欲しい。

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人から声をかけられるのは、人恋しそうに見えるからではないか、と知人に云われる。むしろ今は、誰も彼にも放っておいて欲しい、と望んでいる位だと自覚しているが、それでもさびしそうに見えるのかもしれない。確かに、孤独の裏返しかもしれない。
しかし、キャッチセールス嬢からここ数日何度も「お声が掛かる」のは、すこぶる感じが悪い。隙だらけ、という事だ、色々な点で。

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昼時に、お勤め人も入る店に入ると、なかなか得るものが多い。大人を観察するには良い頃合と場所なのである。
昼休みと云えども猶予はないらしく、注文待ちや食事の途中でも、営業先へ電話を掛けている。注文を間違えられても、語気には若干の苛立ちを含むものの、時計と相談して大人しく間違えられた品を受け取る。注文をする口調がぞんざいな人もいる。お客なのだから当然、と思うものなのだろうか。ぞんざい、というよりは、不機嫌であるようにも感じられる。
注文が間違っていた、という不運は、この人の一日を台無しにするのか、はたまた、「泣きっ面に蜂」を見舞うのか、兎も角幸せを願った程、隣の客は不機嫌であった。
もう一方のスーツの客は、やはり不機嫌そうに、ナイフとフォークを動かしている。ナイフを左でなく右に持っているので、左利きなのか、と暫くの間、水と持つ手やら紙ナプキンを摘む手を横目で見ていたところ、右利きらしい事が分かった。親でさえ箸の持ち方を間違っているこの御時世だから、右だろうが左だろうが、ナイフとフォークくらい好きなように持てば良い、という事になっているのやもしれぬ。
前方を見ると、子連れのご婦人二組がケーキセットを注文するところだった。千円近いケーキセットを幼稚園生のうちから与えるなんて、という僻みめいた気持ちは奥に追いやっておくとして、子どもの前で堂々と電話に出るのはどうだろう。これもまた「御時世」だと片付けられるのだとすれば、私はこの世でかなり口煩い方の人間に分類され得る。といっても、自分でもはしたない事は知らず知らずのうちにしてしまっているだろうから、人の振り見て、というやつだ。肘をついて食事をするな、と私を躾けた母にも、抜け目はある(よって、しょっちゅう父に咎められている)。