神が居ても良いな、と思った.

NARA NOTEクリスマスカードとカレンダー、昨日買いそびれた『NARA NOTE』を買いに、バスに乗って久々に遠方の書店に行く。自宅を出た時点ですでに陽が翳り始めていた為、求めているものをぽいぽいと腕に収め、店を後にする。長居をすると、懐を寂しくするようなものを、必ず幾つも見つけてしまうだろうから、という懸念もあった。
久々に気に入りの喫茶店で食べた、豆板醤入り炒飯が、いつもより辛く感じた。こんなに辛かったかしらん、しかし開店して何年も経たないうちは、試行錯誤の結果として味に変動があるものかもしれない。この間渡伊経験者の師匠とエスプレッソの話をしたのを思い出して、エスプレッソを注文した。この店のエスプレッソは舌にとろりと転がりぐっと沁み込んでいくが、本場のエスプレッソはもっと、泥のように濃いのだろうか、或いは舌にぴりりと苦いのだろうか。
山田稔を読んではフランスに行きたくなり、師匠の顔を見てはイタリアに行きたくなる。
旧友から届いたクリスマスカードには、わざわざフランス語で挨拶が書かれていた。フランス語の発音と文法のややこしさのみならず、アルファベットというものに、すっかり及び腰になっているので、フランス語を見てもこれっぽっちもお洒落だとは思わない。 「鯖」か「飯」*1にしか聞こえない、旧友の可愛い似非フランス語が頭の奥から聞こえ出して、相変わらず丸い字で埋められたカードを読みながらふきだした。
良い結果が出そうだから論文をきちんと書いて修了したい、とひとが云うので、嗚呼、と自分はやはり脆弱な心がけで暮らしているのだ、と小さくなった。なぜやる気を起こさないのか、自分で自分が分からない。自分の敵は自分自身、という奈良の言葉が響く。自分でも、昨日手帖を睨みながら、同じような事を考えていた。
結局遠回りをして大型書店に行き、昨日からの「お目当て」を買う。ご丁寧にビニールで包まれ、氏の他の著書や画集と共にきっちり棚に収まっていた。さすがは専門書の品揃えを「売り」にしている書店である。電車の待ち時間に読み、鞄に仕舞わず抱えて電車に乗り込み、暫く読み睡魔が来襲したのでそれを腕に抱きしめて眠り込む。あまりに深く眠ったので、起きた時一体自分の頭がどこにあるのか、わからなかった。手すりに凭れて眠っていたつもりが、起きた時は手すりの向こう側に頭があった。手すりをくぐって正しい位置に頭を持ってくるのは、何だか変な作業である。
Amazonの「カスタマーレビュー」が書かれていないのは、『NARA NOTE』だけの様で、意外に知られていない本なのかもしれない。最近出た自叙伝も良さそうだけれども、個人的には、一人の人としての氏の生々しいところこそが知りたい。・・・猫の作品ももっと創ってくれないだろうか。
書店で拝借した栞には、聖書の一節が載せられていた。机に齧りついている人間には、世間のお祭り騒ぎや恋人達の甘い空気はもはや微笑ましくさえあり、また誰かの救い主が生れるとなると有り難さが込み上げる。何がそんなに輝かしくて有り難いのか、全く分からないが、兎も角世間が明るいのは悪い事ぢゃない。奈良氏曰く、降誕の日よりも受胎告知の日の方が重要な意味を持つ気がする、とか。

「主はわたしたちを どのように造るべきか知っておられた。
わたしたちが塵にすぎないことを 御心に留めておられる。
人の生涯は草のよう。
野の花のように咲く。」
 --詩篇 103・14、15

簡単な事は難しい。「難しい」という言葉で済みさえしないところが、更に難しい。

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疲労と近視でぼやけた目でも、はたと顔を上げれば、明かりで溢れるマンションを見る事が出来る。あの明かりひとつひとつに生活がある。私の身が、ひとつ、である様に。世界の、ひとつ、に手を伸ばし少し触れてみる為に、ひとつひとつの本を読み、ひとつひとつの頁をめくり、ひとつひとつの人の声に耳を澄ますのだ。
グレープフルーツの様に丸くて酸っぱい色をした無数の私達の「ひとつひとつ」が、果物屋の店先の様な具合でごろごろしているのと、その大量のグレープフルーツの「ごろごろ」を、神様が高いところから眺めているのを思い浮かべた。

*1:“ca va?”/“Merci.”と云いたいところが