唄う雨.

久々に触る柴本さん(今いじっているPCの名前)がとても熱く感じる季節に、早くもなってしまった。夕方には酷い雷雨に見舞われる。健康診断にて採血後、貧血気味のだるさに帰宅中の車中にてうつらうつらと舟を漕いでいると、窓の外に、滝の様な透明な水飛沫が見えた。音も、単なる雨とは思えない。正に滝の様だった。今年も夏が来た。
演奏会に向けてそろそろ練習が始まるので、ここ数日、通勤帰宅中はずっとイアホンを装着して過ごしている。演奏予定の曲と、気が滅入らない為にジャンルの違う曲のアルバム数枚分、ほんの小さな記憶装置にそれらの「信号」を送り込んで持ち歩く。
本当は、イアホンなんてしていたくない。音楽は、どこか腰を据えた先で聴くもの、周囲の音をも織り交ぜて聴くものよ、と思っているからである。周囲の音を掻き消してまで響こうとする音楽は、出汁の入っていない味噌汁の様なものだ。
傘に鋭く落ちる雨の軽快な音とリズム、雨垂れの音、小鳥同士が呼び合う声、遠くを走る電車が放っていくリピート記号、車が風を切る音、子どものぐずる声、それぞれに耳を澄ますと、わざわざイアホン等なくとも、十分心躍る。
そらは暗く、雨は鬱陶しい位の「じゃじゃ降り」なのに、傘をさした女がひとりにやついている風景は気味悪い事この上ないので、顔に感情を表す事は止めにしたとしても、外歩きは楽しくて仕方ない。

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近頃、フィルムの一眼レフカメラを手に入れる機会がたまたまあり、何も分からず戸惑いながらシャッターを切って遊んでいる。大袈裟なシャッター音と手応えに、病み付きになる気配は感じているものの、他人から、頑張りなさい、とりあえず撮りなさい、と命ぜられると気持ちが冷める。他人から励ましを受けると、逆に自分を追い詰め萎縮する癖の所為で、なかなか納得出来る構図を発見出来ないまま、毎度シャッターを押す。
小心者なので、楽器もカメラも何でも、さあ、と横から云われると、何も考えないままに集中だけしてその場を凌ごうとする。自分がどうしたいのか、その為にはどうすれば良いのか、自分の頭で考えた上で作品に向かう、という一連の動作で事を運ぼうとすると、時間が掛かり過ぎるあまり世間に置いていかれてしまう。もっとゆっくり、というのは現代ではもはや禁句なのかもしれない。
でも、ゆっくりでないと、私はいいものをつくる事は出来ない。その間、人の何倍努力が必要だとしても、ゆっくりが良い。「スローライフ」等という小洒落た言葉をあてがうにはおこがましい、自分勝手なテンポ設定、つまり生き方の話である。