「ご飯原理主義」に走る.

次更新する際には、また日記タイトルを変更予定。久々に更新しましたよ、という合図代わりに。
時折思い出したように、「とりあえずビイル」というブログに小さなネタを更新したりもしているが、こちら同様近頃振るわない。喫茶代をけちっているからだろう、という事にする(喫茶店でしか書き物は出来ない性質である為に。たまに公園のベンチに座って必死になる)。

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父の影響により、森見登美彦を読み進めている。父は娘と会話の接点を得たいらしく、読書や音楽等歩み寄れば何とか二言三言の会話にはなるであろうジャンルから攻めるのが定石らしい。森見についても、久しぶりに流行作家の中でも気に入ったのが見つかった、という喜びを全霊から発しつつ、一冊読み終わる度に、娘に読書課題として与える。宿泊先からわざわざ、父の机にあるから持って行って読みなさい、とメールを送ってみたり、帰宅後自室に入って真っ先に目に入る様な場所へ(例えば、電灯のスイッチの下に置いてある棚の上)そっと置いてみたりしている。
そうやってお薦めされた本がもう5冊位、未読書物籠に入っている。自分で薦めておきながら、そろそろ返して欲しい様な顔色を先日していたので、一冊手に取った。
借出し中の5冊のうち以前読みかけた『有頂天家族』はひとまずそのまま寝かしておく事にして、『夜は短し歩けよ乙女』という本を読む。面白く(京都しかも左京区に所縁のある者にとっては特に)、また現代小説だけあってかなり読み易い。詭弁混じりの現代的ユーモア(京都某国立大学周辺の学生臭い)に時々笑い声を立てる。ものの二日で読んでしまった。
面白かったよ有難う、と父に声を掛ければ、不器用なにやにや笑いを返される事と思う。自分の顔の表情の不器用さは彼由来である事は、たまたま硝子に映りこんでしまった自分の笑顔にぎょっとしながら確認出来る。照れている様なはにかみと、包み隠しきれない笑いの中間の様な、どっちつかずの顔になる。多分、顔の筋肉が硬いのだ。就職活動のセミナーで習った、口角を上げる練習が、我々にこそ必要なのかもしれない。
ところで、先の一冊の小説は一種の学園ラブコメディーである(学園、というよりは京都、京都ミステリー殺人事件ならぬ、京都ラブコメディー、と云ったら良いのだろうか)。ラブコメディーを読み進める中で、我が父が一体どんな感慨に浸っていたのか気になっている。そういえば、他の森見作品に対しては、あれが面白かったそれは今いちだった等など、いつもの「文句いい」っぷりが炸裂していたにも関わらず、『夜は短し・・・』に関する「文句」は聞いた事がない。
我が両親の共通点を挙げるとするならば、第一に人の感情(特に色恋沙汰)に対して不器用である点である。赤の他人に対してであれば、適度にさばいていけるだけの要領は会得しているくせに、夫婦間のやりとりとなると、出会い頭が読めない所為か度々喧嘩になる。

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近頃ご飯の美味さ(特に玄米ご飯)に気づいたので、パンを止めている。パンもそこそこ好きで、大学時代は美味しいパン屋に恵まれていた為に、朝食と昼食には、今いる地域で一番美味しいと判断したパンを摂る習慣があった。しかしながら、身体の調子(主に腹もちと吸収する時の感触)を再考して、しばらく三度共飯を食らう事にしてみると、ご飯程身体にしっくりくる食べ物はない、と思う様になった。
玄米ご飯にすると、よくよく咀嚼しなければ胃がもたれるが、食事に時間を掛ける事が出来る夕食や、比較的手の空いている日の昼食等にゆっくり摂ると、その風味の良さに気づく。なぜ態々白米にしてしまうのか、疑問でならなくなる程に。
森見が云うところの、「ご飯原理主義」に走っている。「日本人なら米を食え」と豪語して回りたいところだが、矢張りたまにはパンなり、うどんなりパスタなり蕎麦なりビスコなり、小麦製品を口にしたい訳である(これを「パン連合(何とか派)」と云う)。基本的には好きなものを食べるのが一番気分が良いのだ、という事にしておきたい。