雨という存在.

uopus2009-05-05

が夜な夜なうかれ声を出すので、こちらまで悩ましげな気分にさせられる。昨夜等は近くの公園内で合コンが開催されていたらしく、複数の声色が聞こえてきた。高低大小違い、可愛さも色々。今年は例年より気温が上がるのが遅いので燕は無事だろうか、と心配していた矢先、今日ついに頭の上を横切った。しかも早くも子育て中、母子共にお元気そうで何よりである。独特の高い声は時折耳につくが、スレンダーな体格と赤い帽子をかぶった様な愛らしい配色に免じて、来年もまた元気でおいでよ、と云いたくなってしまうのだ。
写真は近所の葱坊主、ばかにでかい。たんぽぽも早くもまあるい綿毛を付け始めた。久しぶりにケースから出た愛楽器*1は、この季節の空気が性に合っているのか良い音で鳴ってくれている。

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見ている世界、身を置いている世界が、とても狭く感じる。もっと広い視野を、世界を、と望むけれども、どこからどう手を広げていけば良いのか知れない。勉強が出来るようになりたいけれども勉強の仕方が分からない子どもの如く。きっとその取っ掛かりは身近に溢れかえっているのだろうけれど、なんせ焦っているので全部掴もうとして結局全部ものにならない。
量あれば良いというものではない。むしろ、量がある、身辺にものが多すぎるから、大切なことが見えなくなっているのではないか、とも感じる。あれもこれも、と次から次へと視野へ飛び込み心を支配するから、一つ一つを掌握出来ない。よりシンプルに、余白を十分取って、少ないものから多くのことを感じ取りたい。
雑貨やら服やら本やら食べ物やら、気に入ったから、という理由で日々細々と買い足すもののごく一部しか、本当は必要ないはずなのだ。求めてばかりでうまく消化出来ていないもので、目の前が溢れかえって大切なものへの道が覆い隠されてゆく。
そういえば、また近頃、ものをよく噛んで食べる意識を忘れかけている(現在、猫背矯正に必死になっている)。

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この連休は珍しく晴天が続く、という予報はあくまで予報だった。ひとと動物園で猿山を見物中に雨が降ってきた。雨宿りがてら爬虫類館に逃げ込んで、青大将などをゆっくり観察してみたが、一等可愛らしい針鼠くん(夜行性だとは初めて知った)に別れを告げて外に出ると、期待に反して雨はちっとも弱まる様子を見せずにしっかり降っていた。一本しかない傘にふたりで入り、コンドルから孔雀や雉のコーナーをすっ飛ばして動物園を後にする。その間、庇のついた猛獣コーナーでも長居をした。虎のお腹をくすぐりたいだの、顎を撫でたいだの、「大きな猫」を前に、ふたりはすっかり猫好きを発揮した。前脚で顔を拭う様子は、猛獣の虎といえども猫にしか見えない。
六月のボーナスまで節約モードのひとはどうしても傘を買いたがらない。よって動物園の後の予定は雨天中止、雨宿り場所から駅まで直行して敢無く解散となった。
雨が降って来ようとも、動物達は別段変わった仕草を見せない。慌てて傘を買ったり、雨宿りの場所を探したりしなくて済む自由さが羨ましい。

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和菓子屋の茶房で善哉を一杯啜って雨宿りとした。初夏だというのに善哉は暑苦しいのではないか--しかもここの善哉には葛がとろりとかかっていて、白玉まで入っているのだ。冬はこのひと手間が誠に有難い--と、注文段階では懸念していたが、運ばれてくる間に、雨で濡れてしまった足先が冷たくなってきたので、温かさと甘さが身体に沁みた。ふたり共、あー、と言葉にならない声をあげる。
そういう一日の顛末を夕方掛かってきた電話で友人に話すと、え、それだけなの、と云われた。
誠に、それだけ、である。

*1:これ。←請求書が絶望的だった、と云いたかったらしい。