そろそろだ.


 ろそろ「大暴れ」したい。
 京都音楽博覧会、というイベントでチャージした(主にくるりステージにて。次位は石川さゆりで、その次は矢野顕子)魂の相応しきゆくえを探さねばならぬ。
 変わりやすいのは「乙女心と秋のそら」、とはよく云ったもので、気分がころころ変わり、表情もころころ変わり、涙も時々ぽろぽろ流れるので、自分で自分が扱い難くて困るのが秋である。やはり、一度形振り構わず「大暴れ」せねば。
 「夜は短し歩けよ乙女」、ともよく云ったもので、最近大暴れする代わりにひたすら歩いている。「恋せよ…」の件については、もはやどうでもよろしい。

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 文面を仕上げるにあたり、漢字が良いか平仮名が良いか、又は敢えて片仮名か、と考えた時、やわらかく含みのある印象が伝わり易い平仮名が最も宜しかろう、と判断することが多い。年の所為だろうか、それとも一時的な気分だろうか。近頃の自分の生き方が、背伸びよりもやさしさを好む(或いは欲する)傾向にあるからかもしれない。けれども、いざ機械の漢字変換に掛けると、この単語はこんな漢字を書くのだな、と発見の喜びに囚われて、喜びと記憶を持続させる為に結局、全部漢字にしてしまうことが多々ある。
 記録としての文章はまだ良いが、人に読んでもらう文章の場合は、知的欲求のイヤラシキ主張を控えめにすべきことを忘れぬように。
 今日の発見は、なりふり、とは、形振り、と書くそうだ。そんな形をして、という科白を小説なんかで使えば、一気に年代を遡ることが出来そうなので、是が非でも記憶に留めておきたいものである。

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 京都の「灯台」の土台が青色になったことについて、どうも気に食わない。白と朱の幻想の中で、どうも青が煩く感じられる。

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 石川さゆりの「天城越え」を、SL模型から発せられる汽笛の音と共に聴いた後、同行人達の間で、天城を越えたら一体何処に行き、どうなるのだろう、という疑問が湧き起こった。こういう疑問が頭に居残り続けると夜も眠れなくなる性質なので、もはや同行人達の疑問は忘却の彼方へ向っていると了解しつつも、必死で調べた。天城越えが出てくる文学作品は、川端康成伊豆の踊り子』と松本清張天城越え』であると結果が出た。清張の作品は、『伊豆の踊り子』に魅せられた少年が、自分も「天城越え」をしたくなり家を飛び出す話で、『伊豆の踊り子』程ではないが、何度か映像化されていることを同時に知った。「天城越え」とはそれ程までに素晴らしいものなのか。いよいよ興味が湧き始めて眠れない。旅行案内を読むには至らなかったが、自室には置いていない(であろう。情けないことに)『伊豆の踊り子』の冒頭だけでもかじりたくなって、インターネットに頼る。行ったことのない場所に、まるで昨日今日にも行ってきたかのように感じさせ、憧憬さえも抱かせる文章は、さすがノーベル賞作家の手だ。

道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。
 私は二十歳、高等学校の制帽をかぶり、紺飛白の着物に袴をはき、学生カバンを肩にかけていた。一人伊豆の旅に出てから四日目のことだった。修善寺温泉に一夜泊り、湯が島温泉に二夜泊り、そして朴歯の高下駄で天城を登って来たのだった。

 例の疑問の解答としては、天城を越えると湯ヶ野温泉があるらしい。峠を二人で道行き、隠れ宿で静かに身を寄せ合いたい、という曲なのだろう。しかしながら、旅行には常に終わりがある。『伊豆の踊り子』の主人公も、いずれは伊豆の最南端の港、下田から、本州に帰らねばならないし、『天城越え』の少年も大人になる日が来る。歌の主人公である女性も、二人の「旅」にはいつか終わりが来ることを勿論知っていて、だからこそ、殺してもいいですか、と呟く程に情念を燃やすのであろう。
 たまには、好奇心に任せて調べ物をしてみるのもいいものだ。そもそも『伊豆の踊り子』をきちんと読み筋を記憶していれば、睡眠時間をより確保出来たものを、という反省はそこそこに、明日書店に走ることにする。
 ちなみに、「あまぎ声」という声の種類かと思っていた、という同行人は、伊豆のある静岡県出身者であった。地元に関する知識など今時分、もはやそんなレヴェルなのかもしれない。