雨冠.


圏外へ』という本の中に、スープやラーメンなんかに入っているワンタンは、雲呑、と書く、とあった。その記述を見た途端、今すぐ雲を呑みたい(挽肉入りの、つるっとしたやつ!)、という気分に囚われた。結局、昼に買いに行き会社で食し、帰り掛けにもう一度買って例の本を片手に啜った。ワンタンは、つるりつるり、と調子良く食べていると、気が付いたら全部消えている。あれ、もう食べたんだっけな、ということがしばしばあって、もう一度食べたいなあ、ということにすぐなる。まさに雲を掴む、否、雲を呑む心地である。そうやって、ぼんやりしているうちにワンタンはふやけて千切れ雲状になって、更に掴みどころがなくなる。
ちなみに、雲呑、と書くのは広東語だそうだ。

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 大型で非常に強い台風とやらが接近中だそうなので、真っ先に楽器を自宅の1階から2階に移動させて、会社に向う。避難勧告が出たら、通帳と財布の他に持って出る物といえば絶対に楽器であるし、床上浸水で台無しになったら哀しい物の最たるはやはり楽器である。何故かと云われても、不思議と理由が浮かばない。もはや自分の身の一部になってしまっている。明日午前中は自宅待機になったので、雨戸を閉め切った中で、ケースの外へ解放してやろう。
 雨、嵐、雷の日は、読書もしくは映画日和、といつからか決め込んでいる。「雨冠の日」は、雨音があるのでわざわざBGMを選ぶ必要もなければ、字面で疲れた目は窓の外の風景が癒してくれる。映画の場合は、映画鑑賞前後の溢れ出しそうな気持ちを、「雨冠」が受け止めて良い具合に封じ込めてくれる。「雨冠」の灰色が、物思いに丁度良いのだ。霧の灰色も良い。
 灰色の洋服はすこぶる似合わない癖に、灰色の風景とは仲良く出来る自信がある、とは妙なことだ。一度雨を気に入ってしまうと、「雨冠」がショートケーキの苺並みにとっておきのデザートの如くに思える。
 風の音が変わってきた。嵐も好きだとは云っても、災害レベルに達しないか、ということを内心恐れている小心者の酔狂である。

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 呑気な会社で、本日早くも15時に解放されたので、営業終了が早くて普段は立ち寄れない古書店を物色して帰途に就く。小銭入れに入っている数枚で購入出来る目ぼしい本を探して行ったり来たりするうち、『美しい暦のことば』という本を発見、しばらく立ち読みした。茶室の掛け軸に掲げてあるような粋な季節の四文字熟語から、春一番啓蟄の様に親しみある言葉まで、由来と読み方が載っている。装丁が可愛らしすぎである上、手書き風の文字が好みでなかったので購入を暫し迷ったが、内容がとても濃く勝手も良さそうであった為結局レヂに運んだ。古書店の親爺は大抵作業が素早い。雨の日だからか、もしくはシステムを変更したのか、以前は紙で包んで受け渡しだったところを、今回はビニル袋入りだった。本のカバーに出来ないではないか。
 前述の本をぱらぱらとめくって斜め読みしている最中、玄鳥去、という熟語が目に留まった。が、その本を読み進める前に、風の音を聞いたら『風の又三郎』が読みたくなり、程無くして又三郎を読み始めた。風野又三郎と同じく風野又三郎という名の彼の家族が、そこらじゅうを行ったり来たりする様子を浮かべている途中、燕は日本を去って次はどこへ往くのだろう、という疑問に読書の行く手を阻まれた。
 近頃、又三郎達のように、本と本を行ったり来たりしている。非常に飽きっぽい。風の様である。