破滅的に甘い葡萄酒(白).

或るマンドリンの演奏会を聴きに行くついでに、丁度ホールの近隣にあるスフレ専門店に、演奏会に同行する人達とスフレを食しに行く。ココット皿の上にきのこ型に膨らんだスフレに大きめの穴を開け、其処から軽くかき混ぜたクリーミーなソースを注入、うまく「きのこ」を落ち着かせながら消費していく。今回は抹茶味を注文したが、他の味つけもどれも美味だ(ショコラ、さくら、ココナッツ等種類も豊富)。スフレはくしゅくしゅの中身も好きだが、表面の焼き色がついた部分がまた美味しい。・・・御飯のおこげを思い出す。

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人間の汚い部分を感じる。そういうものは有って当然の為、感じたところでそれは「発見」では無く、再発見、と云うべきだろう。やはり人間は、自分の都合の良いようにのみ、行動する。いくら他人に善意で何か働きかけようが、それはやはり自分の都合の良い時、都合の良い事に止まる。当たり前なのだ、他人に対して常に全身全霊を傾ける事等、不可能だ。それでも他人の役に立ちたい、と思う時は、自分の都合を上手くやりくりしながら、他人に働きかける、という事になっている。しかし、「結局のところ、自分は自分の事しか出来ないのだ」と自覚がある場合と、「自分でも何か出来る事がある」と自負する場合とでは、何かが違う気がする。自分で作った自分の限界に行動や未来を制限される事は良い事では無いが、それとは別に、自分の限界を弁えておく必要はある。自分を過信しすぎて、他者の事まで出来もしない安請け合いはしない様、気をつけたい。或る時は見栄も意地も貪欲さを、或る時は謙虚さと冷静を、持ち合わせる。「自分は自分の事しか出来ない。所詮は」

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直木賞作家の角田光代は、「幸せ」やこころの「闇」は、ある「状況」を示すのではなくて、「意思」を示している(自分の意思で選び取る)もの(言葉)なのではないか、とエッセイの中で述べている。成る程な、と感じる。「幸せ」「闇」の感じ方は、ひとによって違う、という事は既知の事であるが、自分の「意思」である、という考えは新鮮だ。私が「闇」と感じているのは、何となくそう感じるから、という部分もあるが、無意識に「闇」を自分のなかに棲ませている上に、「闇」という心理状態を選択しているからだ、とも云える。「幸せ」選択ボックスにチェックを入れてしまうと、私は呆けてしまうだろう。それが怖くて、例え「君は幸せだね、〜な状態にいるんだから」と他人から云われる状態であろうが、常に「闇」を心に棲ませる事を止めない。その方が私らしくて良い、と今は思うがしかし、将来死ぬまでに本当に仕合せになろうというのであれば、こころの「闇」ともう少し向き合わなくてはならない。自分と向き合う事への恐ろしさを、今案外、強烈に感じている。

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露骨な話だが、なぜ自分が今現在、その道に於いて「奥手」で(一度決めてしまえば、「枷」は解除されるのだが)、中学生か思春期のお嬢レヴェルなのか(毒男/毒女と良い勝負・・・一応そのグルーピングの中では上の下ぐらいのレヴェルだと思われるが)、という事を、疲れた能無しの頭で茫と、思考訓練の一貫として考えてみる。解答は案外簡単だ・・・振られる、そして自分が傷つく、自分のコンプレックスの嵩が増す事が怖い。ただそれだけの事だ。自分の事など、到底好きになれない、大嫌いだ、厭で厭で仕方が無い、死ね、と強く念じ続けている一方で、自分で自分が愛しいと思う自分が居る。御仕舞い。
まあしかし、誰も自分の事なんて愛してくれそうにないのだから、精々自分くらいは自分の事をもう少し正直に愛してやっても良いか、と在り来たりではあるが、過去に一度も出した事が無い解答を、道を、導き出すに至る。
もう一つ露骨な話だが、「その気」が無いひとや「どうでも良い」ひとに限って、「どうなんですか?」と訊いてきたり、下手で在り来たりなお世辞を云うのである。「そんなこと云うなら、お前が貰え」。

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ひと、一人。道と雲、一筋。月と太陽、一つづつ。
上を向いて歩こう 涙がこぼれないように」 ・・・目尻の横からも、涙はこぼれてしまう。

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好きなものごと、「これだけは」と突き詰めていきたいと思うものごと、に対してひとからどれ程批判や厳しい意見、忠言を受けても、絶対にめげる事は無い(落ち込む事はあるけれども)。それ程好きなのだ、と確信出来る事がある。 好きな気持ちは、いつだって一方向しかない。返ってくる事はない。ひとの事でいうならば、「好き」を共有するのではなく(そんな事は不可能だから)、同じ方向を向いている事で、好きなひとと一緒に居られたら良い。

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コメント返し>maya.様>お分かり戴けて、幸いです。今度云われたら「おだまり!!」と云ってやるのです。むきゃ。