クールドライ.

uopus2009-05-10

阪には良い喫茶店がない、と勤めだして40年程になる父は嘆くけれど、そんな事はないと思う。ただし、一日一万歩も業務以外で歩き回る暇があれば、の話ではあるけれども。少なくとも、常連さんが持ってきたアイスワインをご相伴に与る事が出来る位、良い喫茶店を、私は知っている。定年退職したので、との事で三ヶ月程ニュージーランドに「語学研修」に行っていた方からのお土産だとか。何とも魅惑的な色をしている。

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あんなに喧しく啼いていた猫が消え去って、今度は田んぼの蛙が夜の覇者となった。いくら憎たらしいといえども、姿を見かけなくなるとさみしいのが猫好きの性である。一体どこに消えたのだろうか。
文字を追う気力がないので、読書は一時休止である。以前読んだことがあって尚且つ再読も楽な本を、手持ち無沙汰の友とする。何をするにも気持ちと腰が持ち上がらず、乾いた週末にしてしまった。
唯一の潤いは、「小三治」を無事鑑賞出来た事である。自分に落語に向いていないんだ、という言葉はご謙遜かもしれない。けれども、高座での科白以上に豊かな表情とは打って変わった、プライベートでの緩みのない厳しい顔を見ていると、ご自分に厳しい方なのだと分かって少し納得が行く。多趣味だけれどもそれはすべて「自分探し」の一環であって、真にリラックス出来る時というのは、入船亭扇橋等気心知れた相手との一時である。何だか未来の自分を見ている様だった。ただし、舞台や人前に立つと、緊張と自信の無さの余り何もかも台無しにしてしまう自分は、ずっとずっと「小者」であるけれども。

五月の莫迦.

なるミッションを発見した。先日ギャラリーで洒落た熨斗袋を見つけたので、今月下旬にある友人の結婚式用に購入したのだが、帰宅後水引選びにも作法があった事を思い出しよく見たら、残念ながら蝶結び・・・。結びきりの洒落たやつを探しなおさなければならない。面倒臭いけれど仕方がない、結婚式は大切だから。依頼された一言スピーチも考えなくては。迷信めいた細々とした習慣を、面倒臭い、と思いながらも、よく考えたものだ、と感心する自分はやはり日本人だ。何事も心の持ち様だという事を、先人はよく知っていたのだろう。

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連休ですっかり体内時計が狂ってしまっていて、昨夜はなかなか寝付けなかった。おおよそ十数回目の寝返りでふと見た時計の針は午前4時半を差していていて、ため息を零す。結局睡眠時間が計二時間で、殆ど機能していない頭と楽器(今日はレッスン日)、楽譜を抱えて会社入りした。全く地に足がついていない様な感じで仕事をするも、休み前に今日のこんな状態を見込んで作成していたメモに助けられて、何とか一日を終える。自分を褒めてやりたい位だ。周囲に調子を尋ねてみると、身体だけ会社に連れてきたのは良いが、心は丸々家に置き忘れてきた様だ、という答えが皆から返ってきた。
睡眠不足のすかすかな頭に疲労が注入され、夜9時からというレッスンに辿り着いた頃には、エネルギーゲージは殆ど0に近かった。そこへ更に、レッスンの結果が招くいつもの情けなさが追加されて、ゲージは一気にマイナスへ。そうなると、精神的にもマイナスに転ぶのがはっきり分かる。どうすれば自分の顔、性格、音、存在を愛せるのだろうか。自分はどうしようもない人間だ。生きている価値のない人間だ。等など、その考え方こそ余程どうしようもないと思う様な考えが浮かぶので困ったものである。もうこうなると、早急に寝床に入るに限る。流石に今晩は熟睡出来るだろう。
甘い香りのする番茶を、上級品という事を気にせずに茶葉をばさばさと急須に詰めて沸騰した湯で勢いよく淹れる。それをマグカップへ(湯呑茶碗にではなく。フランクな付き合いが良い)注いだのを、今手に持って茫とパソコンに向かっている。飲み終わった後カップに鼻を近づけて、未だ残っている甘い香りを嗅ぐと、幾分気持ちが和んだ。毎日30件は来る迷惑メールの削除作業中、最近淋しくないですか、との件名を目にする。最近。人生は淋しいものなんぢゃないですか、常に。
だから、やさしくされると泪が出る。

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明日から、またちゃんと自分の音と感覚を「聴こう」。本も読もう。早く帰ってゆっくりしよう。番茶のお蔭でマイナスからゼロに早くも浮上、良い傾向だ。天晴れ、旨い番茶*1
週末に小さな映画館へ「小三治」を観に行くのを、目先の楽しみとする。柳家小三治氏のドキュメンタリー映画らしい。歌舞伎といい落語といい、人情を感じさせる乙な科白に「してやられたい」のだ。

*1:奈良吉野 嘉兵衛本舗のもの。→関心空間

休暇気分は上々.

uopus2009-05-06

Papierd'armenie(パピエダルメニイ)という、燃やすと空気清浄効果のある甘い香りの茶色い紙よりも、マッチを燃やした匂いの方が癖になる。ライターは怖くて使えない。
この紙を燃やすのに丁度良いではないか!、と極狭い目的で購入した小皿(写真奥。乗っているのは前述のパピエ)は思い通り良い塩梅。骨董品屋で購入(ひび入りの為お買い得)、幕末か明治期くらいだと勝手に思っている。緑がかった灰色の梅の花の中に、鶯か小鳥がいるのが薄っすら見える。雑っぽい手なのが気に入っている。

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ひねもす雨天、にも関わらず、怠けて後回しになっていた衣替えと自室の掃除を強行した。湿気たっぷりなので、防虫剤を急ぎ投入せねばならない。日頃はローラー状のごみ取り(コロコロ、と呼んでいる)簡単に済ませてしまうところを、今日は掃除機にも働いてもらった。気温上昇と共にたっぷり発生したであろうダニ達を一掃するのだ、という妄想で以って。ごうごうという音が不快だし、もはや本棚に入りきらず積んである本が崩れるのが煩わしいので、掃除機での掃除はついついサボりがちになってしまう。
八つ時は、正月以来の久方ぶりに祖母宅へ。徒歩五分だから何時でも行ける、と思っていると逆に足が遠のき、行かないうちに接し方を忘れてしまうので、もっとこまめに会いに行くべきなのだが。ゆっくり過ぎてゆく老人の世界の中で美味しいお茶を飲んでいると、ついつい時間を忘れる。調味料やペットボトルの口が、力の無くなった手には固すぎる事や(日本が高齢化しているのは自明のことなのに、この世はどうも老人にやさしくない、とは祖母の嘆き)、腰を痛めてから遠くのスーパーへ行けなくなったのにチラシだけはチェックして暇を潰している事、洗剤の説明書きは晴れた日の明るい部屋で読む事、そんな至極日常の呟きが新鮮に思える程、自分の視野が狭くなっていた事に気づく。また参らねばならない、美味しい茶菓子でも持って。土産として、祖母の庭で盛りを迎えているジャスミンの花を少々授かった。帰宅後、玄関に花を欠かさない母の顔がほころんだ。
掃除に祖母見舞い、これにて本日、概ね連休のミッションは終了である。目出たし!

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読書は経済書の方が進む。買った本をその日中に開けなければ今後も読まないで終わる、という法則を何かで読んだ。よく当てはまっている、と未読の山を見て思う。勝間和代女史訳で、女史の一生を変えたという本を買ったけれども、まだ読んでいない為しばらく一生に変化はなさそうである。今夜は『無趣味のすすめ』を読破予定、明日は戸板康二氏の歌舞伎に関する本を。
連休中は、殆どリーバイスの501を穿いて過ごした。太すぎず細すぎず扱いやすい幅な上に、80年代のものなので適度に草臥れているので、とても楽で重宝する。5、60年代の501の何たらかんたらモデル、というのは桁違いに高価でびっくりする。物の価値判断基準は底知れないものだ。ちなみに、80年代だと現行モデルのとあまり変わらない価格で購入出来る。古いフォームでこなれた風合いを味わうか、新品で自分で一から「育て上げる」か、という選択肢を得られるので、ヴィンテージを取り入れた生活は気に入っている。

雨という存在.

uopus2009-05-05

が夜な夜なうかれ声を出すので、こちらまで悩ましげな気分にさせられる。昨夜等は近くの公園内で合コンが開催されていたらしく、複数の声色が聞こえてきた。高低大小違い、可愛さも色々。今年は例年より気温が上がるのが遅いので燕は無事だろうか、と心配していた矢先、今日ついに頭の上を横切った。しかも早くも子育て中、母子共にお元気そうで何よりである。独特の高い声は時折耳につくが、スレンダーな体格と赤い帽子をかぶった様な愛らしい配色に免じて、来年もまた元気でおいでよ、と云いたくなってしまうのだ。
写真は近所の葱坊主、ばかにでかい。たんぽぽも早くもまあるい綿毛を付け始めた。久しぶりにケースから出た愛楽器*1は、この季節の空気が性に合っているのか良い音で鳴ってくれている。

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見ている世界、身を置いている世界が、とても狭く感じる。もっと広い視野を、世界を、と望むけれども、どこからどう手を広げていけば良いのか知れない。勉強が出来るようになりたいけれども勉強の仕方が分からない子どもの如く。きっとその取っ掛かりは身近に溢れかえっているのだろうけれど、なんせ焦っているので全部掴もうとして結局全部ものにならない。
量あれば良いというものではない。むしろ、量がある、身辺にものが多すぎるから、大切なことが見えなくなっているのではないか、とも感じる。あれもこれも、と次から次へと視野へ飛び込み心を支配するから、一つ一つを掌握出来ない。よりシンプルに、余白を十分取って、少ないものから多くのことを感じ取りたい。
雑貨やら服やら本やら食べ物やら、気に入ったから、という理由で日々細々と買い足すもののごく一部しか、本当は必要ないはずなのだ。求めてばかりでうまく消化出来ていないもので、目の前が溢れかえって大切なものへの道が覆い隠されてゆく。
そういえば、また近頃、ものをよく噛んで食べる意識を忘れかけている(現在、猫背矯正に必死になっている)。

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この連休は珍しく晴天が続く、という予報はあくまで予報だった。ひとと動物園で猿山を見物中に雨が降ってきた。雨宿りがてら爬虫類館に逃げ込んで、青大将などをゆっくり観察してみたが、一等可愛らしい針鼠くん(夜行性だとは初めて知った)に別れを告げて外に出ると、期待に反して雨はちっとも弱まる様子を見せずにしっかり降っていた。一本しかない傘にふたりで入り、コンドルから孔雀や雉のコーナーをすっ飛ばして動物園を後にする。その間、庇のついた猛獣コーナーでも長居をした。虎のお腹をくすぐりたいだの、顎を撫でたいだの、「大きな猫」を前に、ふたりはすっかり猫好きを発揮した。前脚で顔を拭う様子は、猛獣の虎といえども猫にしか見えない。
六月のボーナスまで節約モードのひとはどうしても傘を買いたがらない。よって動物園の後の予定は雨天中止、雨宿り場所から駅まで直行して敢無く解散となった。
雨が降って来ようとも、動物達は別段変わった仕草を見せない。慌てて傘を買ったり、雨宿りの場所を探したりしなくて済む自由さが羨ましい。

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和菓子屋の茶房で善哉を一杯啜って雨宿りとした。初夏だというのに善哉は暑苦しいのではないか--しかもここの善哉には葛がとろりとかかっていて、白玉まで入っているのだ。冬はこのひと手間が誠に有難い--と、注文段階では懸念していたが、運ばれてくる間に、雨で濡れてしまった足先が冷たくなってきたので、温かさと甘さが身体に沁みた。ふたり共、あー、と言葉にならない声をあげる。
そういう一日の顛末を夕方掛かってきた電話で友人に話すと、え、それだけなの、と云われた。
誠に、それだけ、である。

*1:これ。←請求書が絶望的だった、と云いたかったらしい。

travelling cow books in Kyoto.

uopus2009-05-04

続休暇が晴れ続き、という事は滅多にない、とラジオの天気予報で耳にした。が今年は珍しく晴天に恵まれそうです、と予報士が嬉しそうに告げていたので、特に焦って予定を組む必要もなく、行き当たりばったりで休暇を過ごしている。その日の予定は、朝目覚めて、着る服を頭の中で探すのと併せて考える。服と予定が決まったら、あと何分後に布団から抜けて、どんな朝食にするか(パンかご飯か等)を決める。そういう事は前夜に決めておけば時間を浪費しないのかもしれない。けれども、極めて気分屋で優柔不断、尚且つ「寝坊助」(ねぼすけ)なので、前夜に完璧に計画したところで(計画を組む事だけは完璧)それを実行出来た例がない。結局どんな行動が「人生における浪費」に繋がるのか、その結論は十人十色であろう。
晴天続きと云っても、さすがの連休中日は分厚い雲に覆われた。今日明日と、5月の連休恒例の移動書店カーが、学生時代行きつけだった書店にやって来る。しっかり寝坊の床から抜け出して、陽が傾き出した時間なのを全く気にせずに、ローカル線を乗り継いで書店へ出掛けた。そらが灰色の時は、一際明るい色を身なりに取り入れたい、と思うのは私だけなのか、もしくは私の「明るい色」基準が極端過ぎるのか、寒色のパステルカラーが多くを占める町ですっかり浮いている。梅雨が来るまで、真っ赤なトレンチコートとオイルクロスの手提げ(雨の日用)を封印しておくべきだろうか。

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近頃は全く書籍には苦労していない。読む本は自室に溢れているので、書店に行っても渇望感を抱かない。お腹一杯、間に合っている。いつもの書店はいつかそのうち「お腹がすいた」時にゆっくり見る事にして、買い物は移動書店カーでのみに留まった。『益子焼 やきものの里』(清水裕子 三一書房)を購入。骨董品店やギャラリー兼食器屋を時々覗くも、不勉強な上に若輩者である事も手伝って、店主と話す事で得られる「経験値」が一向に上がっていかないのが悔しいので、少々焼物について勉強してみよう、という試みの現れである。
書店カーに並べられていた古書はどれも魅力的で、状態含めて選び抜かれた良品だが、やはり今はお腹一杯なので二度三度手に取りいつもの様にうんうん唸って悩む事なく、前述の一冊だけレヂに運ぶ。他、鉛で出来たアルファベットが目に付いたので、普段何故か何かと縁深いDも一緒に。Qもオブジェとして見た時ユニークで心惹かれるけれども、こういう一点ものはそう多くは必要ない。
移動書店のオーナー松浦弥太郎*1が今回はいらっしゃっていた。ここ半年間で5冊もの新刊を世に送り出しファンを大いに喜ばせた、その一方でご本人は超多忙であるはずだが、そんな中にあっても移動書店というご自身の原点を疎かにしないところが、とても氏らしい。
尊敬する人というのは、すぐ側に立っていても自分とは物凄く遠い世界に居る様な気がする。同じ空気を吸い、今この時同じものを見ている、という事実が無効になりそうな位、遠い。(一昨日歌舞伎で中村一派を間近に見た時も同じ気持ちを抱いた。)氏は、ジャケットで年相応の大人らしさを出した上に、靴とストールでくつろぎと個性を重ねた着こなしっぷりが清々しく、何よりすっと伸びた背筋が美しかった。自分の親を否定する訳ではないが、氏の様な大人になりたい(性別は違えども)と思っている。

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年に数回しか行かなくなったが或る程度の頻度でどうしても行きたくなるカフェがある。学生時代行きつけだった書店の側にあるので、書店に用がある時は必ず立ち寄る。コーヒーはとろりと甘く身体に沁み渡る味と舌触り、デザートは見掛けは一流ではないけれどきっと美味しい事が何となく分かる。年を重ねると共に生じる変化を発見するのは楽しいが、年を重ねても変わらないものに安心を覚え、また新たな長居の時間を紡ぎたくなるのだ。変わっても良いけれど変わって欲しくないのが、誰しもの本音に違いない。店主のご夫婦は今日も寡黙だが、糸一本でしっかり繋がっている感じがやはり変わらない。まるで糸電話の様に、小さな震え一つも伝え合っているふぜい(実際のところは知れないけれども)。
倹約の為カフェ通いの頻度を落としている為、手帖を開いて文章を書きつける機会も必然的に減った。しばらく書いていないからもうすっかり書けなくなってしまっているんぢゃないだろうか、と半ば諦めていた。ところが、たまたまカフェ併設のギャラリーで感想でも書くか、と書き始めると、鉛筆を握った手がなかなか止まらなず逆に困った。書いたものの質は落ちているに違いないが、まだしばらく手帖と鉛筆を持ち歩いている甲斐はありそうだ。

*1:中目黒にある書店cow booksオーナー、書籍商で文筆家、雑誌『暮しの手帖』現編集長。去年から今年にかけては特に意欲的に文筆活動をなさっている。インターネットでは、エッセイがこちらで読める。

ストーンズと旅に出よう.

旅路の学生達を多く見掛ける頃となった。こんな過ごし易い時期に休暇とは良いご身分だ、と混み合う通勤列車の中で悪態を吐きたくなる。どうにもならない苛立ちは、すっかり自分の過去と他人の都合を忘れさせるのだ。空席にすべり込める可能性を諦めて、本を片手に若者観察をする事にした。
聞き慣れない言葉だ、とよくよく耳を澄ましてみると、それは大抵の場合東言葉である。この辺(関西)では見掛けないお洒落をした4人組が、ボックス席を占領して寛いでいる。格好には煩くない、という様にしれっとした顔をしながらにして、身の丈に合ったこだわりを捨てていないところが垢抜けた様子で、何とも小憎たらしい。
ローカル線での単調な旅路に、メンバーはそろそろ飽きてきたらしく、4人それぞれが徐々に自分の世界に入り始めた。一人はiPodの画面に映し出される映像を追いかけている。向かいの一人は早々に睡魔の虜になっていた。また一人は最初読書をしていたが、直に何処からかアイマスクを取り出して闇の世界へと沈んだ。4人目はといえば、ストーンズはやっぱかっけーよな、と今時殊勝な一言を呟き、ヘッドフォンから流れる音楽に合わせて首を振っていた。
i can't get no
i cant get no......
satisfaction
と、時折シャウト未満鼻唄以上の声で歌詞を発する。この人は、夜中に平気で大音量で音楽を聴き、近所からの苦情が出れば、訳わかんねえ、と返答するタイプだろう。没頭型である。
しかしながら車内では、おや、と一瞬この雑音に耳を傾けた大人が少なからず居たに違いない。電車を降り人混みから離れた時、さーりすふえぁーくしよぉーん、と呟いた大人も。
oh, i'm tired.

闇の海.

uopus2009-03-22

未だ「昼間」と云える時間なのに暗がりがやってくる天候が好きだ。図書館へ行き暫く後退出すると、完璧な雨の世界がやって来ていた。春先の雨は、まだ湿り気が少なく、肌も鼻も潤わない。春の予感を含んだ匂いが、胸のうちに潤みをもたらす事はあったとしても。寒々しい上に中途半端で鬱陶しいのが春雨だと決めてかかると、この季節は少々憂鬱しく感じてしまう。
図書館から借り出した本を読むには少々暗いが、目に突き刺さる様な蛍光灯を昼間から点したくない。何時かのお土産の和風ランプを点すと丁度良い光量になった。美濃土産で、シェードの部分に手漉き和紙が使われていて、電球から伸びるプラグをコンセントに繋ぐだけの、簡易ランプである。手軽な上、和紙からこぼれる光が何ともやさしげなので気に入っている。
電球の橙色の光が、炎の様にゆらゆら揺れる幻想を抱いて茫としているうちに眠気に襲われた。まどろんでいるうちに周囲に夜の帳が下りてきて、結局本格的に部屋に闇が訪れるまで眠り込んでしまったので、読書出来ず仕舞いであった。
本棚に入りきらないで床に置いたカゴの中に入れたり積んでおいたりしている。その丘の上に薄い闇が訪れた時、海の底が現れる。居るはずのないサカナ等を追いかけているうちに、いつの間にか逆に睡魔に捕らえられてしまっているのだ。