メモ.

○触れ合えるかは別として、動物は分け隔てなく好きだけれども、最近特に訳も分からず兎がやたらと目に留まる。勿論猫は相変わらず食べたい位好きだし(高い所に三角二つ、月影の下で揺れている風景が堪らなかった、先日の中秋の名月夜)、鹿も奈良公園の角切りを見物したいくらい気になる。しかし今は兎、もしくは白ふくろう。むっつりふわふわ月間なのかもしれない。謎は、雨戸の外への不安と共に夜のなかで膨張しつつあります。
○風野又三郎一族が団体さんでお越しの様子。どっどどどどうど。
○とらやを見くびっていたことに最近気づく。餡子のレベルが違う。たねやごめん。

雨冠.


圏外へ』という本の中に、スープやラーメンなんかに入っているワンタンは、雲呑、と書く、とあった。その記述を見た途端、今すぐ雲を呑みたい(挽肉入りの、つるっとしたやつ!)、という気分に囚われた。結局、昼に買いに行き会社で食し、帰り掛けにもう一度買って例の本を片手に啜った。ワンタンは、つるりつるり、と調子良く食べていると、気が付いたら全部消えている。あれ、もう食べたんだっけな、ということがしばしばあって、もう一度食べたいなあ、ということにすぐなる。まさに雲を掴む、否、雲を呑む心地である。そうやって、ぼんやりしているうちにワンタンはふやけて千切れ雲状になって、更に掴みどころがなくなる。
ちなみに、雲呑、と書くのは広東語だそうだ。

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 大型で非常に強い台風とやらが接近中だそうなので、真っ先に楽器を自宅の1階から2階に移動させて、会社に向う。避難勧告が出たら、通帳と財布の他に持って出る物といえば絶対に楽器であるし、床上浸水で台無しになったら哀しい物の最たるはやはり楽器である。何故かと云われても、不思議と理由が浮かばない。もはや自分の身の一部になってしまっている。明日午前中は自宅待機になったので、雨戸を閉め切った中で、ケースの外へ解放してやろう。
 雨、嵐、雷の日は、読書もしくは映画日和、といつからか決め込んでいる。「雨冠の日」は、雨音があるのでわざわざBGMを選ぶ必要もなければ、字面で疲れた目は窓の外の風景が癒してくれる。映画の場合は、映画鑑賞前後の溢れ出しそうな気持ちを、「雨冠」が受け止めて良い具合に封じ込めてくれる。「雨冠」の灰色が、物思いに丁度良いのだ。霧の灰色も良い。
 灰色の洋服はすこぶる似合わない癖に、灰色の風景とは仲良く出来る自信がある、とは妙なことだ。一度雨を気に入ってしまうと、「雨冠」がショートケーキの苺並みにとっておきのデザートの如くに思える。
 風の音が変わってきた。嵐も好きだとは云っても、災害レベルに達しないか、ということを内心恐れている小心者の酔狂である。

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 呑気な会社で、本日早くも15時に解放されたので、営業終了が早くて普段は立ち寄れない古書店を物色して帰途に就く。小銭入れに入っている数枚で購入出来る目ぼしい本を探して行ったり来たりするうち、『美しい暦のことば』という本を発見、しばらく立ち読みした。茶室の掛け軸に掲げてあるような粋な季節の四文字熟語から、春一番啓蟄の様に親しみある言葉まで、由来と読み方が載っている。装丁が可愛らしすぎである上、手書き風の文字が好みでなかったので購入を暫し迷ったが、内容がとても濃く勝手も良さそうであった為結局レヂに運んだ。古書店の親爺は大抵作業が素早い。雨の日だからか、もしくはシステムを変更したのか、以前は紙で包んで受け渡しだったところを、今回はビニル袋入りだった。本のカバーに出来ないではないか。
 前述の本をぱらぱらとめくって斜め読みしている最中、玄鳥去、という熟語が目に留まった。が、その本を読み進める前に、風の音を聞いたら『風の又三郎』が読みたくなり、程無くして又三郎を読み始めた。風野又三郎と同じく風野又三郎という名の彼の家族が、そこらじゅうを行ったり来たりする様子を浮かべている途中、燕は日本を去って次はどこへ往くのだろう、という疑問に読書の行く手を阻まれた。
 近頃、又三郎達のように、本と本を行ったり来たりしている。非常に飽きっぽい。風の様である。

パスカル氏からの手紙.

日神にすがってみたくなり、由緒正しい神社でおみくじを引いた。そのくじ(大吉)に記載されていた神託が、何とかの命(みこと)のものではなく、パスカルの言葉であった旨などを、数十分に渡って記述していたところ、アクシデントに見舞われ途中で原稿が失われた。
よくあることよ、と思い直して記述を再開しようとしたが、ひょっとして神の怒りにふれたのか、という気がしないでもないで、この話題を放棄する。かしこみかしこみ。なむなむ。

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プレイス・トゥ・ビー(初回限定盤)(DVD付)
 多分30歳のジャズピアニスト、上原ひろみ女史の最新アルバムを購入す。今回はピアノソロで、ベースもドラムも入っていないので、作りたての鰹だしスープ(具なし)の様な印象である。醤油も何もまだ足されていず、物凄くよく香り黄金色に澄んでいる。鰹一番だし(女史そのもの)と湯(ピアノ)のみ存在している感じで、飲み易い(聴き易い)という評価では何か形容し足りない、不思議な音源だ。テクニックには圧倒されるけれど、始終興奮がある訳でもなく、どことなく静かなのだ。「ブレイン」という2枚目のアルバムに収録されている、Green Tea Farm という曲に彼女自身が詞をつけたものを、ボーナストラックで矢野顕子女史が歌っている点でも、とても美味しい。
鍵盤がぎっしり描かれた格好良い靴を履いてらっしゃる。靴デザイナーである旦那さんのお手製だろうか。
 ラスベガスをテーマにした組曲の中の3曲目、ルーレットかスロットが回って、ハズレたり当たったりする場面が、個人的には楽しくて大好き。

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 パスカルより、人は異常な努力よりも、日々の行為により評価され得るものである、とのお言葉をいただいた。才能のないことをひがみ散らしては、余裕を失くす程意地になって努力してしまうものだ。が、冷静になってみれば、その行為は自分にとってとても不自然であることに気づく。それでもその捻じ曲がった根性で突き進むことが時に必要なのかもしれない、と信じるかどうかはまだ考え中である。
 しかしながら、大哲学者が、日々を大事にせよ、と云うのだから多分、本来の自分をよく理解し日々過ごすことが、一番真っ直ぐな人生の歩み方なのだろう。
 人生よ、そしてパスカル先輩よ、私はまだまだ反抗期です。

そろそろだ.


 ろそろ「大暴れ」したい。
 京都音楽博覧会、というイベントでチャージした(主にくるりステージにて。次位は石川さゆりで、その次は矢野顕子)魂の相応しきゆくえを探さねばならぬ。
 変わりやすいのは「乙女心と秋のそら」、とはよく云ったもので、気分がころころ変わり、表情もころころ変わり、涙も時々ぽろぽろ流れるので、自分で自分が扱い難くて困るのが秋である。やはり、一度形振り構わず「大暴れ」せねば。
 「夜は短し歩けよ乙女」、ともよく云ったもので、最近大暴れする代わりにひたすら歩いている。「恋せよ…」の件については、もはやどうでもよろしい。

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 文面を仕上げるにあたり、漢字が良いか平仮名が良いか、又は敢えて片仮名か、と考えた時、やわらかく含みのある印象が伝わり易い平仮名が最も宜しかろう、と判断することが多い。年の所為だろうか、それとも一時的な気分だろうか。近頃の自分の生き方が、背伸びよりもやさしさを好む(或いは欲する)傾向にあるからかもしれない。けれども、いざ機械の漢字変換に掛けると、この単語はこんな漢字を書くのだな、と発見の喜びに囚われて、喜びと記憶を持続させる為に結局、全部漢字にしてしまうことが多々ある。
 記録としての文章はまだ良いが、人に読んでもらう文章の場合は、知的欲求のイヤラシキ主張を控えめにすべきことを忘れぬように。
 今日の発見は、なりふり、とは、形振り、と書くそうだ。そんな形をして、という科白を小説なんかで使えば、一気に年代を遡ることが出来そうなので、是が非でも記憶に留めておきたいものである。

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 京都の「灯台」の土台が青色になったことについて、どうも気に食わない。白と朱の幻想の中で、どうも青が煩く感じられる。

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 石川さゆりの「天城越え」を、SL模型から発せられる汽笛の音と共に聴いた後、同行人達の間で、天城を越えたら一体何処に行き、どうなるのだろう、という疑問が湧き起こった。こういう疑問が頭に居残り続けると夜も眠れなくなる性質なので、もはや同行人達の疑問は忘却の彼方へ向っていると了解しつつも、必死で調べた。天城越えが出てくる文学作品は、川端康成伊豆の踊り子』と松本清張天城越え』であると結果が出た。清張の作品は、『伊豆の踊り子』に魅せられた少年が、自分も「天城越え」をしたくなり家を飛び出す話で、『伊豆の踊り子』程ではないが、何度か映像化されていることを同時に知った。「天城越え」とはそれ程までに素晴らしいものなのか。いよいよ興味が湧き始めて眠れない。旅行案内を読むには至らなかったが、自室には置いていない(であろう。情けないことに)『伊豆の踊り子』の冒頭だけでもかじりたくなって、インターネットに頼る。行ったことのない場所に、まるで昨日今日にも行ってきたかのように感じさせ、憧憬さえも抱かせる文章は、さすがノーベル賞作家の手だ。

道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。
 私は二十歳、高等学校の制帽をかぶり、紺飛白の着物に袴をはき、学生カバンを肩にかけていた。一人伊豆の旅に出てから四日目のことだった。修善寺温泉に一夜泊り、湯が島温泉に二夜泊り、そして朴歯の高下駄で天城を登って来たのだった。

 例の疑問の解答としては、天城を越えると湯ヶ野温泉があるらしい。峠を二人で道行き、隠れ宿で静かに身を寄せ合いたい、という曲なのだろう。しかしながら、旅行には常に終わりがある。『伊豆の踊り子』の主人公も、いずれは伊豆の最南端の港、下田から、本州に帰らねばならないし、『天城越え』の少年も大人になる日が来る。歌の主人公である女性も、二人の「旅」にはいつか終わりが来ることを勿論知っていて、だからこそ、殺してもいいですか、と呟く程に情念を燃やすのであろう。
 たまには、好奇心に任せて調べ物をしてみるのもいいものだ。そもそも『伊豆の踊り子』をきちんと読み筋を記憶していれば、睡眠時間をより確保出来たものを、という反省はそこそこに、明日書店に走ることにする。
 ちなみに、「あまぎ声」という声の種類かと思っていた、という同行人は、伊豆のある静岡県出身者であった。地元に関する知識など今時分、もはやそんなレヴェルなのかもしれない。

本の行方.

めばるの骨は未だ抜けず、時々えずく。非常に厄介。
昨日何かの拍子にふと、坂口安吾の『堕落論』が読みたい、と思い立った。売りに出す本を引っ張り出す作業のついでに、恐らく部屋のどこかに埋もれているはずの『堕落論』を目指して本の山を切り崩してみたものの、どうも見当たらず。売ってしまったのかもしれない、と諦めて、再度購入することに決めた。amazonで検索すると、新潮、角川、集英社、岩波、の4社が文庫で出していることが分かった*1。翻訳ではないから、どの版でも中身は同じなのであろうが、表紙のデザインが勿論違うので、どれにしようか大いに迷っている。流行の新潮か、変わらず懐かしい角川か(以前持っていたものとデザインは同一)、他の作品も読める岩波か。こういう時に全部買ってしまえることを、「大人買い」と云うのだろうな。しようもないけれども、決められない。
本を掘り出しているうちに、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』が二冊見つかった。ぐえ。

美味い魚にも骨はある.

uopus2009-05-17

に箸を入れて、美しく身をほぐすのには自信があった。しかしながらその美しさは、多少骨の取り残しがあっても、飲み込むのに脅威を感じなければ口に運んでしまう大雑把さがあった故の結果なのである。必要な手を加えた後は、時折ぽりぽりと云わせながら、骨から外した身の部分をきれいにさらう。
本日の晩御飯は眼張メバル)の塩焼きだった。淡白ながら、身はぷりぷりとしていて(ただし焼き過ぎに注意すべし)、塩気に誤魔化されない旨味があり、箸が進む。見るからに鋭い背びれ腹びれを注意すれば、後は何のこともなくすべて片付くだろう、と矢継ぎ早に身を口に放り込んでいたところ、最後の最後にぐさりと来た。魚の皮は香ばしくて好きなので、ついついひれを見逃してしまったのだろうか。兎に角、その後何を食べてもいちいち、喉の奥に鈍痛、時にはそれどころでない痛みが上半身を走る。ご飯の塊、味噌汁、水、ゼリー、考えつくものをすべて丸呑みしてみたが、その甲斐なく痛みは全く消えない。
このところの早食い癖を咎められた気分である。食べ物にあまり興味がない時、つまりはちょっとした憂鬱を抱えている時等は、ついつい早食いになって、食べる欲だけを満たそうとする。
眼張のあの大きな瞳が、鈍痛を覚える度に頭を過ぎる。しばらく頭のついたままの魚にはお目に掛かりたくない。
不快なので一刻も早く耳鼻咽喉科へ行きたいものだけれど、恥ずかしくて行く気が起こらない。

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昨日テレビ放映された、映画「ダヴィンチ・コード」の中の、アールグレイにはレモン、という科白に「引っかかり」を抱いている。
調べると、日本人の多くは、アールグレイティーはミルクかストレートで仕立てるのが好みだとか。個人的には、ベルガモットとミルクの組み合わせを好かないので、ストレートで飲むことにしている。成る程、ミルクよりもレモンの方が、柑橘類同士のあり得る組み合わせだとさえ思うが、一般的にはどうなのだろうか。
仲良くしたい人と嗜好が一緒だと何となく嬉しい、という人間臭い感情は、時折自分の嗜好を歪ませるので面倒臭い。どこまでが本当に自分で、どこからが実は他人なのか、もはや分からない。

「退屈」座り.

燭の炎が尽きるのを今、体育座りで待っている。深い器の中で蝋燭を灯すと、後々マッチで芯に点火する際一苦労する。今日等は、なかなか巧く行かずマッチを5本も無駄にしてしまった。マッチを縦向きに持つと火傷しそうになるので、器の方を傾けたりして苦心し、やっとの思いで無事点火することが出来た。また同じ苦心を繰り返すのは煩わしいし、蝋も残り少ないことだから、としばらく灯しっぱなしにしている。が、一度点いた炎はなかなかに根気強く、小指の爪くらいの大きさで揺らめき続けている。
蝋燭を入れている器は、骨董屋にて安価で求めた昭和初期のデミタスカップで、取っ手が付いている為に点火後も扱い易く重宝している。しのぎ、という、側面にぐるりと入った縦の溝が好きで、見掛けるとつい手に取ってしまう。それが白磁だと尚更弱い。白磁でしのぎ、という「弱点」を総括したのがこのカップなのだが、昭和初期の白磁の特徴なのか少々薄手で、がさつ者にとっては注意を要する品かもしれない。
点火に悪戦苦闘しているうちに、箱に残っていたマッチをすべて使いきってしまった。あと二本、あと一本・・・と擦っていると、マッチ売りの少女を思い出した。気に入りの絵柄を付けたマッチ箱を、老舗喫茶店を回って探す楽しみが出来た幸せも、そう思うと一塩である。

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帰宅後自室で一息つきながら、今日は小三治師匠の『ま・く・ら (講談社文庫)』をぽつぽつと読んでいる。題名の通り、落語の前置きである「枕」を集めた本で、ウィットに富んでいて非常に楽しい。景気と機嫌の良い話ばかりでもないが、調子が良いのでどんな話題でものめり込んでしまう。
落語の世界でも、話というのは今日のお天気の話題からなのだな、と思うと、古典芸能もそう構えすぎるものでもないのではないか、と感じる。

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蝋燭はまだ尽きない。ホワイトムスクの香と熱気にくらくらしてきたので、今日のところは諦めて眠ろう。と思うが、『ま・く・ら』の方が面白くて眠れない・・・。
自分の書くものが面白くないのも、大概にせねば。