仮想情死の午後.

午後の光がすっかり春めいて来た様に感じられる。この明るさと柔らかさ、午後の色は、花見の出来る季節のものだ。何かと理由をつけて散歩に出掛けようとさせる光に、期待と絶望(春だと云うのに云々)を抱いた。
何時に待ち合わせ場所に着くのか、一向に連絡をくれないひとを待ちながら、ドーナツチェーンで『弱法師 (文春文庫)』を読み、コーヒーを飲む。未だカップに半分程コーヒーが残っているというのに、お代わりを勧められる。今カップに入っている分を飲み干しても、きっと未だ連絡は来ないだろうから、勧められるままに注ぎ足してもらった分を、身体に流し込む。事故に遭ったのではないか、という嫌な想像が始まり、本の文字を追えなくなってきたあたりで、電話が振るえ、今日は来ない事を知らされた。事故ぢゃないなら、明日があるから良い。

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人が死んでばかりの本は、自覚している以上に、今読むとよくない、という事に、半分程読んだ辺りで気がついた。
誰かが骨になってしまって、もはや誰だか分からないのに、誰それです、と云われてその骨を拾う場面を想像してみるが、すぐに止めてしまう。今は涙を流す時ではない。
骨を一欠けら、ハンカチに包んでこっそりくすねて来よう。気に入りのケースに入れて、一生持ち運ぼう。

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弱法師 (文春文庫)』は、能が話の下敷きになっている、と新聞の書評欄で見かけて購入してみた。以前同じ作者の作品を読んだ事があるが、どんな内容であったか忘れてしまった。積極的に性描写をする人だが、決して下品でもなく、また変に美化されてもいず、静謐さを伴った作品、という印象が、ふわふわと掌に残っている。
後書きに、セックスを書くのに飽きてしまった、とあり、笑った。描写なしに艶かしさを出す、という課題は自分も同様に持っているので、興味深かった。
こうやって現代風に噛み砕かれると、能がどれだけ日本人の価値観に則って作られているか、もしくは、どれだけ日本人の価値観を独特の美意識へと導いているか、が分かる。